おなごテツ

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10月30日(土):ありのまま(Let it go)とあるがまま(Let it be)

10月30日に行われた「おなごテツ」のテーマは「ありのまま(Let it go)とあるがまま(Let it be)」でした。以下は当日の発言録です。

 

  • ありのまま→客観的。あるがまま→主観的。 
  • 在るがまま 有りのまま
  • 「在るがまま」は自己を超えている気がする。
  • 在るがまま→自己完結的 有りのまま→他者から見た自分
  • 「あるがまま」は、覚悟がある感じがする。「ありのまま」は、その都度変化する場合もありそうな感じ。
  • 在るがままは「覚悟」。
  • be→その状態にする go→動詞。doに近い。アクションを起こすのを許可する。
  • 今の自分はあるがままである、と言えるが、ありのままではない。休日に寝坊するなど、自分の体調に合わせている。だが、それが幸せか?というと、NO。自分をコントロールできていないから。
  • 自分の目指すところと「ありのまま」が一致しているといいと思う。
  • 自分をコントロールできないと自分を好きになれないし、本当の自分とは思えない。自分の意志で自分の目指す方向に行ける方が達成感、納得感がある。
  • どういう状態が「あるがまま」なのか?  子どもを産むのはよいことだと言われる時、「女性のありのまま」をみんな誤解しているのでは、と思う。産み育てることが幸せという考え方もあるが、反出生主義という考え方もある。常識となっている「女性のありのまま」が正解とはいえない。
  • 女性のありのまま=母性だろうか?
  • 「ありのまま」の社会は、社会の固定観念を押し付けないありかたなのでは。
  • 未熟さや障がい等で自分をコントロールできない人の行動は「あるがまま」か? しかし、経験を積むと行動が変わってくる。忍耐できるようになったり。
  • 環境を整える中でその人の「あるがままの在り方」が変わっていく。
  • 「私」をわたしらしく「個」として生きたい。自分が意図した人生を生きてきたから他者の評価や社会の仕組みからどう見られるかは度外視している。
  • ありのままで生きるために環境を変えて身の回りを構築し直す人もいる。自由に生きるためのすり合わせ。
  • あるがままと為すがまま、で生きているけれど、大きな災害や病気にあった時、「コントロール」なんてできないと気づいた。コントロールできていた、と思っていただけかもしれない。
  • 為すがまま…ができること自体が幸せ。
  • ほとんどの事がコントロールできない。「そう来たか」と思っている自分(動揺している自分)を受け容れることが、あるがまま。全部自分。来たものに委ねる。流されているのとは違う。コントロールを手放した方が上手くいく。委ねる自分を認める。
  • コントロールできないところに入った時、たくさんのものを失ってもまだたくさんのものを持っていたと気づいた。家族、友達がいるだけでも自分の支えになって助けられていた。
  • まだ手元にあるものに感謝。
  • 【問い】他者の「ありのまま」をどう受け入れたらいいのか? 借金頼まれたり、イヤな言い方されたりとか。↓
  • 【答え1】どうしたらいいのかととまどっている自分そのまま、ありのままを表現する。
  • 【答え2】「心の動物図鑑」に入れる。
  • 【答え3】そういう「ありのまま」は苦手、それが私のありのままです、と返す。
  • 【答え4】受け入れたくないと思えば、そう思う自分を受け入れるのも自分のありのままだと自分を受け入れると楽になって、その問題を扱いやすくなるかもしれない。
  • したいことはするけど、やりたくないことはしない人がいる。でも面白くなさそうなことの外側にも面白いこと、やりたいことはあるかもしれない。 ゆだねるとか、待ってみるとか、自分を信じるとか、そういうのも「あるがまま」に組み込まれているのでは。長い目で見れば大切なことではないか。
  • コントロールを手放すのは自分を信頼しているからでは。
  • 自分を信じる→世界を信じる。
  • 似顔絵は精密に描いても面白くない。ありのままではその人らしくなくなる。正確であっても、その人らしさが出ない。それ以外のところを伝えないと伝わらない。あるがまま、というのは単なる正確さを写すことではない。
  • 自分のことは意外とありのままに観ていない。時々外で鏡見て愕然としたり。若い時の自分像があたまにあったり。
  • 自分のありのまま=実は虚像?
  • 自分で思い込んでる自分は「自分」だろうか。自己イメージは曲者。他者は第一印象を良くも悪くも裏切られることが多い。 自己イメージに従って生きているので、ありのままの自分を生きていないかもしれない。
  • 他者と仲良くなりすぎると逃げたくなる。ありのままの自分を知ってほしいとも思うけど、近づき過ぎると怖い。支配されるからだろうか。
  • 心のドアは開けるところと開けないところがある。ありのままを理解し合わなくても共に生きられる。
  • 女性と男性の違いも大きいかもしれない。
  • 自己開示し過ぎると相手が心を閉ざして逃げることもある。
  • 自分を解放し過ぎた人っておかしくなりがちではないか。「ありのまま」をやり過ぎると「ポジティブ・テロリスト」に。
  • 「ありのまま」「正直」って、相手にとっては暴力的なときもある。
  • 演技は過剰なくらいやらないとほどほどができない。やり切ってやり過ぎた後で、自分の加減(心地よい自分の在り方)がわかる。やり過ぎは過程。
  • 子どもの頃は忖度せずに全部出してしまう。大人になったら控えめにするけど、それは抑圧から。もう一度出したい時はその反応で出し過ぎてしまうのでは。自己イメージは植え付けられるのか。
  • 子どもの頃の「ほんとの自分」と大人になってからの「ほんとの自分」は違う。時と共に「ありのまま」も変わっていく。
  • 反動で出過ぎたものは「ありのまま」ではないのでは。ほどほどに落ち着いた時が、本来の「ありのまま」。
  • 「アナ雪」のエルサが自分を解放した時、やりすぎで孤独になったが、最終的には自分の力をコントロールできるようになって幸せになった。ありのままを他者を受け容れてくれるという安心感から自分を保てるようになったのでは。一旦受け入れてもらえないと落ち着けない。抑圧か弾け過ぎるかの極端になる。
  • 受け入れてもらえて、自分で自分を肯定できて、自分のパワーを制御できるようになれば最高に幸せ。それがさらに他者のために貢献できたら嬉しい。
  • 「ありのままの私」は自己イメージによる「あるはずの私」で=「うまく行っている私」だろうか?
  • 同じ趣味の人同士のコミュニティを今は作りやすい。その世界では受け入れられるけれど通常の日常では受け入れられないかもしれない。だがそれは「受け入れられている」と言えるのか? 小さな世界では共感されても全体の社会では認められていない時、どうなのか。
  • 個人が幸せと感じるスペースをどこに置くか、によって「受け入れられる」基準が変わる。
  • 受け入れるというのは、外部から受け入れられる場合と自分で受け入れるとの二つあるのだろう。
  • 自分が好きなものがメジャーになったり量産されたりすると、しょんぼりしてしまう時がある。
  • 社会には認められなくても自分の感性に合うものを楽しめればOK。 受け入れられて一般化され過ぎるのは逆にかなしく、自分があるがままではいられなくなる。 
  • ありのままの自分自体が、自分ではわからなくなってきた。
  • 「ありのまま」は、他者からのまなざしによってわかる部分があるのでは。「他者のまなざし」といっても、「女性のありのままは、こうだ!」という圧力ではないけれど。
  • 自分では「自己イメージ」があり、家族からは「思い込み」があり、意外と会ったばかりの人の方が、自分の「ありのまま」を見ていたりする。
  • 他者によっても「ありのまま」は作られて行くのかも。
  • 海外に行くと自分を発見される気もする。素の他者に会う必要性がある。
  • 植物や動物のありかたは「ありのまま」と言えるか。一方、品種改良や掛け合わせは「ありのまま」だろうか。
  • なりたい理想の自分を「ありのまま」と勘違いすることもあるのでは。外から見たら違うのに。
  • 整形等、全取り換えすること、自己改造することは「ありのまま」か?
  • 仮面をかぶっているほうが、地がでるかもしれない。
  • 動画投稿はアバターでやりたい。ありのままの自分を出すために、あえて。防衛として。
  • 昔からカーニバルで仮面を付けると自分になれる、という傾向はあるかも。
  • アバターになったときに、どんな自分が出てくるか、予想つかないところがありそう。
  • 仮面付けた方が大胆になれるかも。逆に言いたい事が言えた。攻撃的なこととか。思ってもみない自分が出てくることもある。
  • 肩書=仮面では。人間社会で生きていくことはアバターとして生きていくことなのでは。
  • 昔から「ありのまま」では生きていけない。

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