おなごテツ

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10月24日『「不幸」について考える』

「不幸」は「幸福」の反対語なのでしょうか?
「障がいは不便です。でも、不幸ではありません」(ヘレン・ケラー)
「不幸」と感じる要素は何なのか、考えてみませんか。

・あなたにとって「不幸は?」と問われると、意外と答えられない。「幸せ」なら答えられるのに。

・不幸と不運は親和性がある。不運は日常が壊れる。

・幸せと不幸の間にあるグレーゾーン(フラットな感じ)は広い。不幸と感じる時には運の問題もある。予想外の事態によってネガティブなことが起こったときに不幸を感じるのでは。一度真っ黒になると継続して黒くなることもある。

・不幸をごちそうと思う人がいる。不幸な人がいるとそこに行く。助けてあげることで注目されるから?犠牲者、聖人になれるから?救世主願望。

・不幸自慢する人は、不幸であることが幸せなのか。

・不幸をごちそうと思う人(犠牲になって注目されたい人)の心情は、「人の不幸は蜜の味」とは少し違う。

・いい人になりたくて人助けに行く人がいる。詐欺師はかわいそうな人を助けてから搾取しに行く。

・人からいい人だと認められないと自分が幸福だと感じられない。本当に幸福な人は、他者の承認を必要としない。

・想定外のことが起きて自分にとって負荷がかかることが不幸。受け止め方次第ではあるが、人からかわいそうと思われたくはない。それはなんだろう…。

・「不幸があって…」という、身近な人が亡くなる表現がある。その言葉を人と距離をとるために使うことがある。自分を不幸に見せたいわけではないけれど。

・洗濯物が雨でぬれてしまった場合は心に傷を受けるほどのアクシデントではないので不幸ではない。不幸は、完全に心に傷がつく状態。 『フランダースの犬』のネロは不幸なのか? ネロ自身が自分を不幸と思った瞬間はそんなになかったのでは? ネロは幸福でさえあったかもしれない。

・「不幸」とは学ぶ概念かも。その概念がないと不幸を感じることができない。

・不幸になりたくないから「考えない」人がいる。その人のことを考えると「無責任」という言葉が浮かぶ。幸福も不幸も受け取ろうとしない澱んだ感じがする。防衛に入っている。幸も不幸も受け取らないことは無責任では。

・ニュートラルな状態があって、幸せと不幸がある。比較対象に気づいた時、不幸と感じるのか。環境最適という考えがある。鳥は空、魚は海が棲み処。一羽の鳥が海にいれば不幸かもしれないが、たくさんの鳥が海にいてみんなが苦しんでいたら、それは不幸?あたりまえ?

・自分の状況を周りと比較して、いい方にいれば幸福だと感じる。自分を不幸と感じることで自分を守ろうとしている時がある。自分がそもそも不幸だと感じていると、なにかが起こっても傷つきにくい?

・不幸に必要な要素は「比較」。一つの町でみんなが一千万円の家を持っていて自分だけ八百万円の家では不幸を感じる。みんなが四百万円の家の中で自分の家が六百万なら幸福に感じる。……それでも八百万の家がいいと考える人もいるけれど。

・自分で自分を守れれば「不幸」を感じない。犠牲者になることが自然だと不幸を感じにくい。

・自分の状況を「不幸」だと認識しないと自分を守れない。

・「不幸」と認識しないまま突き進むと「不幸」にならない?

・「今の自分の状況っておかしくない?」と思う時が、気づきかける瞬間。習慣づけされると安定してしまい抜け出しにくい。不幸に安住したい人もいる。

・不幸を認識するには、ある程度の力がいる。子どもは不幸になりやすい。自力ではどうにもならないことが多い。子どもこそ不幸にさらされている。それが大人になっても持続しやすい。

・平安時代、現代の不幸は前世の責任といわれる時代があった。前世で悪いことをしたと思われたくないから不幸を隠したいという文化が今もあるのでは?また、不幸そうな女性が好きな男性もいる。

・自分の不幸に気付いたあと、やさぐれた時代があった。自分が不幸だから(被害者だから)仕方がない…自己欺瞞、いいわけを無意識に使っていた。

・不幸話(自慢?)をしてくる人がいる。それでも自分はがんばってる、と主張する。それに対して、どう反応したらいいのか困る。

・不幸自慢の人は、それを免罪符にしている。この人はいいわけしてるだけなんだな、と思う。

 

後半テーマ【「比較」以外に不幸を生む要因はあるのか】

             

・予想外の不運。こんなはずでは…という思いは不幸を生むのでは。

・選択をする自由・余地がないと不幸と感じる。自分の状況を変だと思っても、他者の価値観を押し付けられてしまい、そこから離れられない状況。

・枠の中で幸福を感じている人も、外から見ると「この人は不幸だな」と思ってしまう。

・潜在意識で不幸を求める傾向があると不幸になる。

・幸福は満ち足りていること。だから、他の満ちているものと比較して欠けたことに気づいて「不幸」と感じる。事故なども自分の予測と比較して不幸と感じている。…結局あらゆることが「比較」に行きついてしまう。

・不幸と感じている時点で、その人は不幸ではないと聞いたことがある。理想があるから不幸と感じる。その人には「理想」があるという点で幸せなのでは。

・子どもが順番にケガや病気をすることがある。母親がそのことに注目しすぎているから?それでも大事にいたらなくてよかったという点もあるのに。幸・不幸の解釈の問題はある。

・突発的でネガティブなことは不幸な要因だけど、それを「考えてしまう」ことも不幸の要因。「不幸」がデフォルトである方が生きやすいかも。

・40代で高齢者施設に行きたいと言った人がいた。理由は、自分で決めなくていい、なにもしなくていいから、とのこと。責任やリスクをとりたくない?

・ネガティブと認識されやすいことも、解釈次第でポジティブにとれる。ニュートラルな部分が広い人は不幸になりにくいのでは。

・たとえ比較してもモノサシが大きければ、たいした不幸にはならない。

・病気やケガに当たり前に不幸というレッテルが貼られていることに違和感がある。健康との比較という基準がある? アトピーで苦しんだときは不幸の認識があったが、長いスパンで見ると、それによって自分の健康について気を付けるようになり、そのおかげか大病はしていない。小出しにした分よかったかも。

・人を見て不幸だなと思うとき、自分の基準と比較している。

・心は追い詰められると体に逃げるという説がある。心そのものを凝視すると壊れるから。同様に、深い問題から目を逸らせるには、個々のわかりやすうい不幸に視線を向けることが有効な場合もある。

・病気を不幸と思っていなくて、チヤホヤしてもらえる機会と考える人もいる。病気をしない人のことを、ダラダラ生きてるからだと評価することさえある。がんばることに価値を置いている。そんな価値観が伝染し連鎖することもある。

・体調が悪くなると視野が狭くなる。感覚が先鋭化して、ますます体調が悪くなる…。逆に、他者と比較することで自分の感覚を正し、そう不幸でもないと感じられることもあった。「比較」を良い方に利用する。         

・不幸をポジティブに捉え直すには、ある程度の年齢や経験も必要。

・ネガティブな感情を感じたくないから人に解決してほしい人と、それを解決してあげようとする人がいる。解決してあげようとするとき、相手の感情を勝手に「不幸」と感じている。解決してあげようとしたつもりが、その人の学びをジャマしていた。

**皆さまのコメントお待ちしています。**

9月26日『お世話する人は誰にケアされるのか』

介護、子育て、病気、障がい、etc. 様々なケアが求められる中、お世話する人が感じる閉塞感は、どのように解消されるのでしょうか。
お世話する人が誰にケアされるのかという視点も含めて、ゆっくり考えてみませんか?

・インフルエンザに罹患していた間、夫にケアされていた。その一方で、離れて暮らしている家族から何度も電話がかかってきて、正直その対応に疲れたが、心配している彼らの気持ちを思い、「大丈夫よ」と返事した。このときの私は、ケアされながら他のひとをケアしている状態だった。

・参加しているボランティアサークルに新しい人が入ってきて、話の輪に入れない時は疎外感を感じるだろうと思ったので、新しい人に軽い世間話をしたが、それはその人へのケアになっていただろうか?あるいは関係ない話をし過ぎただろうか…と気になった。

・気が付く人はつい色々やりがち。そういうことを敢えて我慢してやらず、本当に相手が望むことだけをするのもケア。ケアとは、相手を心に留めること。夫の看病中、日々思いがけないものを欲しがったが、家にあるもので近いものを作ってあげた。欲しい瞬間に用意することが一番喜ばれた。

・1年くらいずっと夫をケアする側だったとき、姉が半日お出かけに誘ってくれてお茶することができた。外出させてくれた夫にも、一緒に出掛けてくれた姉にも感謝。すごくリフレッシュでき、満たされた感じがした。姉も誘ってよかったと感じ、おそらく送り出した夫も喜んでいたはず。マッチングが上手くいくとみんなが幸せになる。

・自分から愚痴を言わない人でも、たまには聞いてほしいことがある。

・子育て中の友だちと話をするとお互いすっきりする。ケアから離れる時間をもらうのも大事。

・子育ては人生の山場のひとつ。「母」は自分しかいないという緊張感がある。そういう人へのケアの第一歩は、その代りをする人もいるよ、と示してあげること。それを知るだけでも違うかも。老親の介護なども同じ。

・日本では家父長制度って現代も意外と変わっていない。介護は嫁や娘がするもの…。アメリカに長期で行った時、知人の家の敷地に離れがあり、そこでその家の祖母が、家族ではなく介護の専門家にケアされていた。普段の生活では会ったことがなかったので驚いた。

・プロのできるケアと家族にできることは違う。技術的な違いもある。家族にしかできないケアとは…?家族にしかできないのは心を寄せるということくらいかも。

・サ高住に暮らしている父がいる。からだのケアは施設の人がしてくれるけれど、認知の衰えを感じる父と自分が会話するのがケアになっているかも。家族だから共有する記憶がある。父の認知を刺激する話ができるのは家族である私だけ。父の身の回りに置くモノも選んだが、父がそれで安心している。家族にしかできないケア。

・父がホスピスに入った時に聞いたが、入居者の家族が誰も来ない人がいるらしい。それまでの家族の過ごし方が大事…。

 

〇後半。あらためて本日のテーマ「ケアされる人は誰がケアするのか」

             

・産後ドゥーラ。産後の母親をケアする人たちのこと。それを広めようとしている人もいる。アメリカの哲学者の提唱が元になっている。ケアする人はケアしている分よわくなっているから、ケアする人自身もケアされる必要がある。ケアは連鎖していくのでは。社会がするのか個人のするのか、答えは出ていないけれど。

参考 https://www.doulajapan.com/howto-doula/

※「ドゥーラ」の語源はギリシャ語で「女性の召使い」。やっぱり女性なんですね。

・関係性の根っこが大切。父のケアはお互いの関係もよかったので辛くなかったが、姑のケアは辛かった。辛くて逃げたこともあるが、世間や親戚の目が気になった。でも意外にも親戚からは感謝された。

・ケアラーをケアするのは社会制度であるべき。

・介護保険制度ができたから、介護は女性だけに押し付けられることではないと認知されはじめた。しかし、ヘルパーさんのことを女中さん扱いする高齢者もいる。社会制度も大事だけれど、ケアされる側の意識改革も大事。

参考『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? ; これからの経済と女性の話』

https://amzn.asia/d/07wTHkUh

・ケアする人をケアできる一番近いところにいるのは、ケアされている人。ありがとうの一言も言えないのが一番ダメ。基本的な人間性の問題ではないか。意識改革は、いまの子育てから始まる。子供連れの家族を見ていると、躾が行き届いていない人達をたくさん見る。

・家族からの「ありがとう」がない。あたりまえと思われている。物理的な手伝いもお金もないのに…。この辛さは体験しないとわからない。他人事が自分事になった時にわかる。しかし皆がそれぞれの人生のタイミングでバラバラに気付くから問題視されにくい。社会制度はどうなってる?とその時になって思う。

・制度はあってもわかりにくい。作る側にも問題がある。

・究極的には、いざという時、ケアしている親を捨てる覚悟も必要なのでは。捨てられないからケアする側が身を削る。共倒れになることもある。

・究極の覚悟は必要。その前の段階で、他の人に助けを求めることを自分に許すことも大事。日々ケアをしている人から愚痴を聞かされると、聞いた側はアドバイスをするが、その人はアドバイスを聞かない。できることがあるのにそれを選ばないのは、ケアしている自分の立場を大事にしているから。ケアしている対象を捨てられないのではなく、自分の立ち位置を捨てられない。自分の立場を捨てることなく、いい塩梅の制度ができるといい。

・介護の愚痴を言う代わりに漫画で表現していた。

・苦労は作品に残すと周囲に影響を与える。ケアする人の立ち位置を捨てられない人は、境界があいまいになり視野が狭くなっている気がする。完全に捨てずに軟着陸する方法はないか…と考える。外部の人の助けが入ると最初は違和感があっても、慣れることでいい方向に変わっていくこともある。

・人が一番大事にしているのは自尊心。その自尊心を大事にされたとき、ケアされたと感じる。それを制度でどうするのか? ケアする人は、辛くて苦しい立場でも、それによって自尊心を保っている面がある。別の道もあるという具体的な何かが必要では?

・介護保険制度によって、介護には金銭が発生するという認識ができたことは大きい。制度が変わることで意識が変わることはある。ケアする人をケアすることも制度ができればいい。

・良い関係にある人をケアしているケアラーは、それでいい。それをよかったと認められることが、ケアラーのケアになるのでは。

・与えられることが、自分の優越感や自尊心を保てるので、ケアされればケアされるほど嬉しい人もいる。そんな人のケアラーになる必要はない。

・自分がケアラーになる時に、ある程度、どこかで手放す覚悟(線引き)をしておく。そうでないとケアされる側と共に不幸になることがある。ケアされる側も、され続けることは辛い。感謝し続けることも辛いものである。

・ケアを手放し、自分の命を守ることも自尊心を守ることになる。

・ケアされる人がしてほしくないことも言ってほしい、とケアする側に言われてよかった。(言いたいことを言い合える関係)

・人は、人の犠牲でどこまで生きていていいのか…と思う。人間って、そんなにだいじ…?

・ケアは、するにしろされるにしろ、人生のどこかで必ず自分ごとになる。思考停止せずに考え続けたい。

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8月22日『「疲れ」とは』

夏の疲れって「気だるいような、それでいて心地よいような…」不思議な感じがしませんか。「疲れ」には、たくさんの種類がありそうです。一言では言い尽くせない「疲れ」について、さまざまな切り口から考えてみませんか?
・「進撃の巨人」というアニメを、人に勧められて見てみたが、精神力がかなり必要だった。どうしてこんなに心が削られたのか……。疲れた理由が自覚できなかったのが少しショックだった。心の疲れを回復させるのは難しい。
・アニメでも残虐なシーンを見ると疲れる。見ないようにする。逆に明るく楽しい作品なら元気をもらえる。
・「進撃の巨人」たしかに疲れた…。一難去ってまた一難の衝撃が強すぎたから?希望がすぐに消える。希望がないと心はどんどん疲れるのか。と言って希望を積極的に見つけに行くのも疲れる。(「よかった」探しをする『愛少女ポリアンナ物語』のポリアンナみたいに)
・いつも心が疲れている。共依存になりがちだけど、疲れ果てた時に「私ごとき」という言葉をふと思い出した。
・日本人は疲れている人が多い?それは元気をもらいたいのでは?「進撃の巨人」を読んでいて、最初は怖かったが、だんだん慣れてきたのはストレス耐性だったかも? 慣れると同じストレスを受けても疲れが少ない。若い時なら疲れたことでも、歳を取り経験値が高まればあまり疲れずに済むこともある。
・疲れている時に免許更新に行き、講義ビデオを見せられた時、音の大きさが耐え難く、それに関連する出来事まで思い出してしまい、疲れが増幅された。
・疲れている時の刺激は疲れが増幅される。胃が疲れると脂っこいものはしんどいが、お粥みたいなものはうれしい。元気な時は焼肉とか食べたくなる。体調が万全なら、同じ刺激でも疲れ方は違うのかも。
・元気なときでないと母親に電話ができなかった。心が削られることがわかっているので。疲れているときは、難しい本が頭に入ってこない。日を変えて読むとスイスイ入ってくる。体力や気力の残りに影響される。自覚できなくても、なにかをすることで自分の疲れが自覚できる。
・休息をとってわかる疲れがある。疲れている時は、ただ眠いだけ。休んだ後「疲れていたんだ」と自覚できる。
・体が疲れていないと眠れない。ジムに行って体を疲れさせるとよく眠れる。
・週末かならず登山をする知人がいた。仕事で頭が疲れるから、登山で体を疲れさせてバランスをとっていたらしい。
・朝起きると既にしんどい…、眠い。ジムに行って運動しようかと思うが、きらいなことをするのはどうか? また、エネルギーが強すぎる人と一緒にいても疲れる。血圧の高さも元気のあるなしに関係ある?
・エネルギー高い人といると疲れる。そのとき削られるのは気力。焚き火みたいなもので、近づきすぎると暑い。離れるとほんわか温まる。疲れと距離感(あるいはギャップ)の関係もあるかも。予想外のところからがーっとこられると刺激が強い。
・眠れない人は、頭がずっと動いている気がする。でも、そういう人は寝る前に「問い」を入れておくと、朝起きた時に自然に答えが出てくる。
・感度が高すぎてしんどい。でも周囲にそれをわかってもらえると楽になる。
・ストレス源を遮断するのが苦手。ストレスを受けても自分を守る術があれば大丈夫かも。慣れるまでストレスを浴びてやる!という気持ちもある。
・ストレスに慣れることによって、自分の良さがなくなることもある。周りに合わせることで自分の良さや平和がなくなるのは違う。自分の良さは守りたい。ある一線を超えたら逃げた方がよいという見極めは必要。
・戦場で人が死ぬことに慣れてしまうと、戦争が終わってから病気になることもある。
・病気になる人はまだ核が残っている。核となる部分でさえも破壊されることがあるのでは…と思う。
・誰かといて、自分の価値観を蹂躙されそうになった。でも第三者からは、沈黙していた私の方も威圧感があったと言われた。 自認と他認は違う。
・苦しんでいる人がいたら、その人の荷物を持ってあげたくなる。でも実際には「持つ」ことはできない(コピーでしかない)。それなのに、持ってあげたつもりのそれを返そうとすると、相手により大きな負担を与えるのではと怖くなる。本当は相手が解決できる事なのに勝手に相手の力を削いでいた。
・自分のしんどさに気づくのは大事。やり過ぎると相手の自立心を奪ってしまう。
 
☆後半の問い☆
『疲れなくなったら人間はどうなる?』
・疲れた時のいいこともある。夕方頃、疲れてウトウトするような…。疲れていないと成り立たない心地よさがある。
・疲れないと達成感もないのでは。
・疲れを感じなかった時があったが、勢いがつきすぎて止まれなくなった。
・疲れを感じない時に走り続けたが、あるとき突然疲れてしまって反省した。
・周りも全部疲れない人なら問題ないが、一部の人だけが元気すぎると、元気な人には周りの人のエネルギーの低さが理解できないのが問題。どんどん傲慢になっていく気がする。みんなが疲れない体質だったら大丈夫だろうけど。
・疲れない人は、疲れる人の気持ちがわからないから、疲れる人に対して不満が出そう。
・昔「すぐに“疲れた”という奴はろくな仕事しない」と言っていた上司の方が仕事ができなかった。疲れやすい人のほうが質のいいクリエイティブな仕事をしていた。そこそこ疲れた人がいる世界の方が安定しているのでは。
・疲れる人は痛みや苦しみがわかるので、他者のことも理解できる。疲れない人は相手を理解する機会がない。
・母がエネルギッシュな人だった。人望があったので、すぐに企画を提案し、多くの人を集めることができた。そんな母を見ていてしんどいな…と思っていたが、母の活動に巻き込まれたおかげで、一人ではできないいろいろ経験できた面もあった。刺激としては、疲れ知らずの人がいてくれてもいい。
・人間は実はみんな疲れるものなのでは?弱さをみせると危険?弱さを見せないようにするのは疲れる。
・ストレス耐性の話。どれくらい疲れたかは本人の主観であり、他の人にはわからない。もうだめだと思うぐらい疲れていても、外からの刺激によってもう少し頑張れるようになり、生きやすくなるのでは。しかし、ほどほどがいい。
・疲れて休んでいる時にアイデアが生まれることもあるし、人それぞれ分野によっては強い部分もあるかもしれない。粘り強さとか。その分野でがんばればいいのでは。
・疲れ知らずの人の刺激によって新しい世界を知るという良いこともあるので、とりあえず「やってみて」ダメなら帰ってくる。最初からムリだと思って動かないよりは、自分にとってのいい塩梅が見つかるのでは。
・相手のためにエネルギーを使い過ぎて共依存になっていた時、クリエイティブな思いが強くなり、自分のことがしたくなった。
・追い詰められてアイデアが出ることがある。それは本人が意識していない「無心」。疲れているかどうかも自覚していないのでは? 疲れに「良い、悪い」もないのかもしれない。
・疲れがどんどん積み重なりある時期大崩壊して、その時にこうしたいと感じた原型(アーキタイプ)が立ち上がってくる。
・疲れるっていいものなのかもしれない。疲れいとわからないこともある。一方、疲れない人が周りの人にいい影響を与えることもある。みんな役割なのかもしれない。
・どん底に来た時、自分の本当にやりたいことがわかる。エネルギーの高い人にコントロールされてやりたくないことをさせられたからこそ、やりたいことがわかる。
・認知症の母。施設にいて「なんでもやってもらえて、ここは天国」だと言う。疲れない生活…。
・家に帰って「疲れた」という時、自分をいたわっている。なにもしなくてもいい、と自分を赦している。

**皆さまのコメントお待ちしています。**

7月25日『おなごテツまんが祭り』

・「推しまんが」を紹介してください
・コミック、アニメ、いずれでも可
・ひとり4〜5分程度
・推しポイントを紹介する
・タイトル、作者はチャットに貼ってください(Amazonリンクやアマプラリンクだとなお嬉しいです)
・聞き専もOK

…(意見・感想等)可愛いだけじゃなく闇もある作品。ちいかわは労働者で苦労もして一生懸命生きているから、普通の人々にじわじわ刺さるものがある。モモンガはモラハラ。かわいいけどえらそう。デカツヨから体を盗んで?入れ替わっている。実社会にもあるな、と思わせる。

公開された映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』も世界観が余すところなく表現されていてすばらしい。

…(意見・感想等)作者は亡くなられているが、もっと評価されていい作家。心理学に造詣が深く、絵の美しさだけでなく優れたネームも多いので、むしろ今の時代こそ刺さる人が多いかもしれない。代表作は「月下の一群」「少年は荒野を目指す」「記憶の技法」「瞳子」など数多いが、「天使の声」は中期の傑作で短編二編が収録されている。絵の華麗さと物語の質の高さのバランスが群を抜いている。

  • 山岸涼子「化野の...」「ある夜に」

…(意見・感想等)死について。死んだことを自覚していない女性。彷徨っている。 あの世に向かう道。歩く道の状態が違う。自分の人生に納得している人や文句の多い人など。文句の多い人は成仏できない。

ただのホラーじゃないんだけど、ジャパニーズホラーのような湿度もなくて、独特の冷涼感だと思います

  • 竹宮恵子「七階からの手紙」

…(意見・感想等)花の24年組※と呼ばれる漫画家の一人。才能と個性のすべてが詰まった短編。パリの下町の12歳の少年の成長物語。ある手紙から内面を成長させていく。大人の表現も上手い。ヨーロッパの青春小説的な趣もある。

当時は「女性こうあるべき」という縛りがあったが、その窮屈さからの解放の表現として「少年」を使ったかもしれない。

※花の24年組

  • 青池保子(1948年(昭和23年)生)
  • 萩尾望都(1949年(昭和24年)生)
  • 竹宮惠子(1950年(昭和25年)生)
  • 大島弓子(1947年(昭和22年)生)
  • 木原敏江(1948年(昭和23年)生)
  • 山岸凉子(1947年(昭和22年)生)
  • 日渡早紀「ぼくの地球を守って」「ボクを包む月の光」「僕は地球と歌う」

…(意見・感想等) 10代の頃に読んでいた。輪廻のような概念もある。地球に転生してきた高校生6人と小学生。前世の記憶を共有している。前世の関係・物語が影響してくる。前世の関係をやり直す現世での人間関係の面白さ。それらを読み解く。小説的。

…(意見・感想等) ドラえもんの悲劇バージョン。ドラえもんが腑に落ちなかった人には合うかも。 

…(意見・感想等)嫌な人がひとりもいない。宝石入門にもなる。好きなことにのめり込んでいく素晴らしさ。人間関係のわずらわしさ、闇の部分が描かれていない。自然描写が素晴らしい。

漫画の「古典」とは…手塚治虫。 少年漫画を読んで育った。少年漫画では女の子はかわいくなくてもいい。王子様がいなくてもいい。時代が変わって、女の子がこうあらねば…が変化していった。それが「タコピーの原罪」「瑠璃の宝石」にもつながっている。

ドラえもんはのび太と共依存関係にある。それは救いになるのか?「タコピー」は助ければ助けるほど相手はダメになる。

…(意見・感想等)謎が謎を呼ぶストーリー。コミカルとシリアスのバランス。ドラマとバトルのバランス。人間ドラマとバトルシーンの充実。アイヌ文化に興味をもつ人が増えた。日露戦争後の世情の描写。大きなターニングポイントがあった。その空気感が描かれている。キャラクターが魅力的で各自のドラマも丁寧。主人公とアイヌの少女の成長物語。

鶴見中尉の壊れ方が半端ないので好き。背負っている過去のドラマが美しい。

…(意見・感想等) 15世紀のヨーロッパを思わせる架空の世界。天が地球のまわりを回る「天動説」だけが正しさとされ、地球が動くと考える「地動説」は、口にすれば命を奪われる禁忌だった。その禁じられた真理に、命を賭けた人たちの物語。

  • ラファウ「多分感動は寿命の長さより大切なものだと思う。だからこの場は、僕の命にかえてでも、この感動を生き残らす」
  • オグジー「今はこの地球(感動)を守るために地獄へ行ける」
  • バデーニ「君の文章は論文としての価値はない。が、それゆえ、伝わる可能性は高いだろう。感動だ」
  • ヨレンタ「この世は最低というには魅力的すぎる」

6月27日『魅入られるー華と魔』

「華がある人」や「魔力がある人」には何があるのでしょう?
魅入られてしまう人には何があるのでしょうか?
光を放つ側、闇に惹かれる側、さまざまな立場から考えてみませんか。

・映画「ベニスに死す」では、ビョルン・アンドレセン扮する美少年に惹かれる老教授が、疫病が蔓延する中、命の危険を顧みず彼を追い続けてしまう。美少年の魔に魅入られていた。

・老教授が美少年に何を感じたか。自分の中に欠けているもの、潜在意識で欲しくてたまらないものをその人がもっていたのでは? そこまでのものでなければただのキレイな子で終わってしまう。自分の内面との響き合いの中で魔や華が生まれるのかもしれない。

・魅入られる「場所」もある。ある駅でとびこみ自殺した人がいて、その後も同じことが続いたことがある…。なにか魅入られるものがあったのか。

・華のある美しく完璧な人がいた。面白くて人気もあったけど、この光は怪しい…と感じていた。なぜ影がないのか? つきあううちにわかってきたことがある。その人の母もそういう人だったことで、彼女もそうなりたいと思ったらしい。しかし作為的にしてしまったために、周囲の人は離れていった。作為的なところに「魔」があった? そもそも光と闇は両方ないとおかしいのでは。

・誰しも心の中には人に言えない欲望などがある。自分では具現化できないけど他者がそれを表現していた時「華」と感じるのかも。すごい人気のグループなどは、ファンの中にあった欲求が具現化されているのだろう。また、それと一体化できる、したいと思う時に「魔に魅入られる」のかもしれない。

・「かてぃん(角野隼斗)」というピアニストに「華」を感じる。シンプルな曲も、彼が弾くと華やかになる。ビジュアルや、楽器や曲とも関係ない気がする。この華やかさはなんだろう…と思う。一定の規則に沿っているのか?とても不思議。

・華を感じるピアノの音はノイズがなく純粋なのかも。ごく普通の演奏にはノイズがある。どちらがいい、わるいというわけではないけれど。

・かてぃんさん(ピアニスト)の純粋なクラシックはそれほど面白くない。現代音楽やアレンジのバランスが「華」を生んでいる?自分を壊してくれるところに「魔」を感じる。

・エキストラで芸能人に会った時、芸術品のようだと感じた。華というのは、自分とはちがう世界のことと感じる。魔は心に作用してくる。その人の世界観があり、自分の感じ方が左右されるような気もする。

・できないことを望むことは破滅に向かうこと、魅入られること?

・魔→壊れる→再生の流れがありそうだなと思った。

・トルーマンカポーティの『遠い声、遠い部屋』という小説がある。この作品には魔や闇を感じる。表現に技巧が凝らされていて、読み進めるうちに闇にひきずられていくような作品。普通の人にはとらえきれない過剰なもの…闇が込められている。

・私がベルサイユ宮殿にいったら「華!」と思う。受け止められないほどの「華」。自分の地味な家に戻ったらほっとするだろう。対象との距離というのも、華や闇を感じるひとつの要素。

・谷崎潤一郎の世界についていけない…。高等遊民。働いていないのに浪費、贅沢!おもしろいけど実際にいたらイヤ…。ダークな世界は現実にはなく、小説や映画などで光り輝くのでは。距離があれば楽しめる。

・ジェンダーの問題をあつかう場にいた時、女性たちの行き過ぎた怒りの中に違和感があった。ホワイト社会について語る場の中でも違和感を感じた。白と黒、と分けることへの違和感?

・ビョルン・アンドレセン(「ベニスに死す」の主役の少年)のような美しい顔に生まれて、無自覚に人から美意識を投影されたら…生き方が難しくなるだろう。「魔」が彼を利用した?美を具現化するものとして。美に魅入られた被害者。

・神社に行くと、昼と夜では様子が違うがどちらにも惹かれる。白と黒、両方ある。

・恋愛中、「君は太陽みたいだ」「ずっと輝いていてほしい」と言われても、そうできなかった。ずっと光のままでいてくれと言われても困惑する。お互い光も闇もあるはず。

・恋愛は妄想だから、言わせておけば…。

・魅入られることも妄想なのでは。でもリアリティを感じるから破滅することもあるのかも。

後半

・問い…華と魔、の違いとは。発する方でも受け取る方でも。

・魔=破滅、としたら、華=浄化と言えるかも。どちらにしても、自分とは決定的に距離がある。一体化するほどにはのめり込めない。現実感とかけ離れているに魅入られはするけど、一体化はしない。しかし、距離を埋められない人も、なかにはいる。

・人に対して「華があるね」とは言えるけど「魔があるね」とは言えない。魔はクローズド。華は多くの人に作用する。魔はそうではない気がする。

・「魔があるね」と言われる方がうれしい。自分がクローズドだからか。華のわかりやすい例が「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラとしたら、魔はメラニー・ウィルクス。彼女には底が知れないところがある。メラニーが死んだ時、周囲の人が変わる。スカーレットからは人が離れていく。魔は人を変えていく?

・魔は「飲み込まれてしまう」もの。主体がなく相手まかせ。華は、それを見ている自分がいる。客観性がある。

・華は花で、魔はそれに集まる虫。甘い蜜を享受したくて集まる。でも、魔の花もある。一体化しなければ逃れられるかも。

・ビョルン・アンドレセンが老人になったときの姿はインパクトがあって感動的だった。『ベニスに死す』の中のビョルンの美の一部は作られたもの。あそこまで作り上げたのはヴィスコンティの力。華はダイヤモンドと同じで、誰かが磨いて生まれるもの。自分で磨く人もいる。一方で闇(魔)は生まれ持ったものなので希少価値があり、心を持っていかれるのでは。

・『風と共に去りぬ』のアシュレーこそ、魔。華のあるスカーレットが頼りないアシュレーに魅入られている。それはスカーレットの妄想。自分にないものを求めている。でもアシュレーはスカーレットの想いを受け入れなかったから「魔」たり得た。「魔」であることに無自覚である方が、他者を没入させる「魔」になる。

・『戦場のメリークリスマス』におけるセリアズ(D・ボウイ)。セリアズにヨノイ少佐(坂本龍一)は惹かれていく。セリアスには魔性があった?

・相互作用でつくられた関係。闇にのまれて壊れていく…。

・『戦場のメリークリスマス』の二人は単なる同性愛ではない。セリアズは言葉に尽くせないものを込めてキス(抱擁)した。それは、恋愛よりもっと大きな愛(人類愛、平和)のようなもの…。ヨノイ少佐の方は、そのメッセージを受け止めきれず壊れたのでは。 映画を観ている側としてはセリアズの方に華を感じた。受け止めた側の心で華は決まる?

・無意識に策略として使っている「魔」もある。それがイヤ…。

・絵画でも「華」と「魔」がある。ダリには狂気を感じるが、マグリットはもっと平和的。どちらもシュールレアリズムだけど。受け取り手によって欲するものがちがう。

・「魔」というのは資本主義では重宝される。華は労力や忍耐も必要。ある人の考察で「戦争は引き起こしやすいが、平和を作るのはむずかしい」「人を怒らせるのはカンタンだが笑わせるのはむずかしい」とあった。これと同じことが「華と魔」にも言えるかもしれない。華は手に入れにくい。

・絵を、好きでも飾れないのは華と魔の違いかも。飾りたくないのは「魔」に通じる。

・『戦場のメリークリスマス』には美意識の共有を感じた。

・退廃的な人に「魔」を感じる。それは生きにくそうな人でもあり、だからこそ生きてほしいとも感じる。

・芸術家は闇を昇華して絵にする。それを見る人は自分の闇を刺激されて感じる。表現せずにいると魔性を帯びていく。誰かを助けてあげたい人にとって、それは魅力的に感じるかもしれない。

・華も魔も、日常的に縁のないことだと思ってしまう。物語の世界。人間が作った文化。でも静かに魅入られていることはあるのかも。自然の美しさとか。

・「戦闘機」のデザインの美しさには魅入られるけれど、それは兵器でもある…。

**皆さまのコメントお待ちしています。**   

 

4月25日『慮るとは』

誰かを「慮る」とき、そこには何があるのでしょうか。
相手を慮っているつもりが自分を慮っていることも。
その背景や相互作用について考えてみませんか。
・なにかを相手に言うか言わないか・なにが基準になっているか? 気持ちを想像している。
・言う側のアクションに対して、言われる側がどう感じるか。そこに相互作用がある。
・受け取り方はわからない。慮ったとしても完全に当てはまることはないかも。日常では、高齢者に電車の席を譲る時、相手のことを慮る。でも相手がどう捉えるかはわからない…。
・慮っているうちに時間が経って事態が変わってしまうこともある。
・人の気持ちはわからないから、推し量ることは不可能。相手にもわからないだろう。だからその後のストーリー展開を想像する。状況に重きを置く。電車なら譲るほうが相手が喜ぶ確率が高いだろうと予測する。
・相手との過去のやり取りによる経験知があるだけでなく、知らない人との間の経験知があり、自分自身の過去の経験によっても慮り方が変わる。過去に席を譲って怒られた経験があれば譲るのをためらうし、経験がなければためらわない。
・自分はエンパス※。情報・感情を広いすぎるタイプ。他者から一本の線でしかつながっていなくても自分は千本くらい感じてしまう。ノイズが多い。状況で判断するように切り替えないかぎり、無駄に吸収してしまう。
※エンパスとは、他者の感情やエネルギーを深く感じ取り、共鳴・吸収する気質を持つ人々を指す言葉です。HSPが幅広い刺激への敏感さを持つ一方、エンパスは特に他者の内面やエネルギーに強くフォーカスする傾向があります。
・慮る時には感性を使っているが、人によって情報量がちがう。
・30歳くらいのときに若い男の子に席を譲られた。慮り方が間違ってないか? 断ったら恥をかかせると思ってお礼を言って坐った。
・常識という共通の基準がある。お年寄りや妊婦さんなど。共通認識に個人の経験が乗っかる。慮る時、自分の経験と常識を天秤にかけている。
・妊婦の時、よく席を譲られた。親子になってからは二人分譲られることが増えた。そこにも常識が隠れている。
・妊婦マークやヘルプマークで最近はわかりやすくなっている。配慮されるとうれしいというアピールにもなる。つけないことで配慮されたくないという意味にもなる。
・妊婦マークで逆に攻撃(ぶつかってこられたり)されることもある。いろんな感情を喚起させている。配慮しろとアピールされるという感じにイラつく人もいる。そういう人は、自分を慮ってほしいのか。
・席を譲らないことで自分が罪悪感をもつのがいやだから、ということもあるのでは。そういう配慮は外面であって、実は自分のためなのでは。
・自分を慮らない「慮り」はあるのか?
・本当の思いやりと違うのは「擬態」(真似)では。衝動がおきた自分が「席を譲る」などの行動しているだけで、本当の思考・感情は動いていないのでは。
・そこで承認欲求が満たされれば報酬を得ることにもなる?
・考えずに反射的にすることは感情が入っていなくて、気兼ねなく受け取れるかもしれない。それは逆にいいこともあるのでは。合理的に慮ってくれる方が。
・常識にもとづいて動くのはわるくない。結果オーライ。
・慮られる側に立った時、どうするか。わかりやすい結果が得られる方がいい。でも、たくさん考えてもらいたい人もいるかも。
・気兼ねさせてしまう慮り方も気になる。受け取る側には重いのでは……。
・すべて受け取る側が決めているところがある。受け取るキャパが大きい人はいいが、キャパが小さい人は受け取り切れないことがある。そこで「遠慮」という別の慮りが生じる。相手も自分と同じ価値観や経験を持っているわけではないことを理解するスキルが必要。
・周囲は受け取れない人ばかり…。だから傷つけたらどうしよう、と怖かった。自分中心に考えている。
・「受け取れない」がわからない人もいる。好意をもって与えられても「重い」と感じるのはなぜ?
・好きな人からの好意は受け取るけど、きらいな人からの好意は受け取れない。人間関係構築が大事。
・好意を発する側が感情をこめ過ぎると、他のことが妨げられる場合がある。慮られる側は感情だけを与えられても、本来受け取れるものが受け取れない。
・いきなり重い球を渡すことはできない。電車で席を譲るのは軽いほう。ある程度の関係性、距離感で重さは調節される。重いものを渡せるのは、お互いはかりあえる関係性があるから。関係性を変えたい時にうまくいかないと、受け取り方に齟齬が生じる。
・「重い」という意味がいろいろある。重い慮りを受けた時「余計なことをされた」と思った。ある試験で全員合格すると思っていた時、一人だけ落ちた。合格した人からの慰められ方が不快だった。合格・不合格で立場が変わったことで関係性が変わったのか。
・慰めたい、励ましたい欲が誰しもある。思いだけがあってボキャブラリーが伴わないとおかしな発言になる。結局は自分が何かしたいという欲を満たしているだけでは。人が何かするときは必ずなんらかの欲がある。
おかしな言葉をかけられた時には、誰もが適切な言葉を使えるわけではないと考え、気持ちだけを受け取ることにしている。
・気の毒な人をみて辛い時、思わず手を差し伸べることは「欲」ではなく「慈悲」では。
・「私はわかってるわよ」というテンションでなぐさめられるとイラッとする。
・友だちが苦境に立っていた時、周囲の人は慰めていたが、そんな慰めの言葉は必要か?と思った。その友だちをそっとしておいてあげたかった。
・漫画やドラマでは懐の深い人がいて、辛い目にあっている人をさりげなく連れ出して楽しい気持ちにさせたりして、直接ではなく間接的にその人が立ち直る道を提供する。皆言葉だけで何とかしがちだが、言葉は役に立たないことが多い。その人のために動く方が効果的。
・学生時代に傷ついた時、友だちの家に泊めてもらった。翌朝、畑仕事を手伝ってと言われて一日はたらいた。そしたら翌日元気に学校に行けた。畑仕事をしたことで元気をもらえた気がする。
・お金もなにもなく辛い時、いろんな慰めを受けたけど、友だちがお米を贈ってくれた時、すごくうれしく励みになった。
・慮る側に、自分の手柄にしようという気持ちが無いときに相手に届く。慰める時、何らかの濁った意図が入ると伝わりにくい。
・つい「大丈夫だよ、私なんてね…」と自分の話をはじめると、相手が立ち上がる気力を削いでしまうのでは。辛い場面に引き戻されるのは苦しいし。
 
〇後半の問い→本当に相手のためだけを考えた慮りはあるのか?
・慮りには相手を思う気持ちも、自分の欲も含まれているので、純粋である必要はない。慮りではなく「愛」はあるかもしれない。
・愛と慮りは違うのか。愛ある慮りがあっても、なんらかの濁りはある気がする。
・純粋な慮りがあったらいいなとは思うが、慮りという言葉で表されるものには多少の濁りがある。どこかに自分を守る意図が入る。愛には濁りはなく、すべてを投げ出し得るのでは。
・「慮り」は誰にでも平等にする「配慮」。それによって自分は公平だ、いい人だということをアピールできるのでは。「愛」は、特定の相手に対してできるのあって、誰にでもできることではない。愛の方がエネルギーがいる。
・慮りというのは、条件を考えてするもの。愛は、そうせざるを得ない思いでするもの。それをしないという選択肢はない。
・相手を慮る行為をしていたが、欲が出て別の解決法を試したくなり、それまでのことをやめてしまったら、相手が喜ばなくなって関係性が変わってきた。
・同情するなら金をくれ、は真実かも。言葉だけで何もしない人は役に立たない。自分の身を削るかどうかで判断している? 言葉はどこか侮られるところがある。自分のエネルギーをいかに差し出すかが問題。
・人に時間を使わせるのはその人の命を貰っていること。何かしてもらう、物をもらうというのは重いこと。そこに純粋性が隠れているかも。
・してはいけないことをしない、という慮りもある。
・貧乏人からのなけなしの100円と、お金持ちからの100万円をくらべたら、前者の方が価値がある。環境によってその人がどれだけ投げ出しているかがわかる。
・とある作品に、貧しいものから受けた施しは忘れてはいけない、というセリフがあった。
・本の言葉に救われることがあるのは、それは作者が身を削った言葉だからではないか。
・自分が考える根拠、軸は他人。無駄なことをいろいろ考えている。なにかをしてもらった時、相手の基準がわかる。その時、自分はそこまではできないと思う時、この人は思いやりがないと思われるんだろうな…と感じてしまう。
・受け取れない時、「お返し」が気になるのでは。
・はじまりが「相手」である時、慮りの純粋性があるかも。なにもできなかったとしても内側にある。
・なにかを贈りたい時、相手が「お返し」を意識しているかもしれないと思うと、贈ることが気になる。
・解決法や正解を探してあげたいという気持ちがある。
・カウンセリングを学んだとき、解決しようとしないということを学んだ。聞き手がすっきりしたくてアドバイスしてしまうのが、一番やってはいけないこと。解決しようとせずに根気強く聞き続ける方法がベター。相手の心の荷物を一緒に持ち続ける。身を削ってエネルギーを使っているときしか届かない。
・慮る側が「納得」したい時がある。そのために何か余計なことを言うことがある。言われた側にそれが合わない時、齟齬が生じる。求めるものが違う。
・常識やテクニックが欠けている時、慮ったつもりが周囲を不快にさせることもある。
・現実はただ起きていることなのに、それがショックだった時、それを「できたのに」と言われると、できなかったことが大きく響いてくる。なんの根拠もなく「大丈夫」と言われるようなときも同じ。

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3月28日『色気とは』

あなたは何に色気を感じますか?

エロスと似ているようで、違いもある。

人だけでなく、文章、音楽、陶器、 或いはストイックな生き方、翳や欠落に色気を感じることも。

色気が何から生まれるのか…考えてみませんか?

まず、参加者のみなさんに次の3枚のスライドを見てもらいました。

このあと、スライドの問いに答えるところからスタートしました。

●カトレアの方が繊細、そこに色気を感じた。ベネチアングラスは芸術的で洗練された美しさがある。

●ひまわりは堂々として見えすぎるあたりが色気を削いでいる。色気は曖昧。チョコレートがしだれている、乱れたものときちんとしたもののズレに色気を感じた。タンブラーに色気を感じたのは、背景が揺らいでいるから。これを使っている状況を考えたときに、タンブラーに匂いを感じた。珈琲の香りとか雑踏とか。

●タンブラーの写真には男性的な色気を感じる。ひまわりも男性的な力強い色気。カトレアやベネチアングラスは女性的な色気。

●幼少期に女性性を排除し、男性のようになりたいと思ったのがいき過ぎて兵士のような生き方をしてきた。色気=キモいと思い、反対を選んでしまって人生損した。おせんべいについては美しい女性が食べていたらまた違うかも?

●物にはあまり色気を感じない。タンブラーの写真に情景が見えた。

●おせんべいは主食になりうる。そこには色気が必要無い。チョコレートは食べるととろける。無くても済む。余白、不必要が色気に通じる。タンブラーの中に入るものは必要な飲料。ワイングラスに入るものはなくても済むもの。特別感。

●子供の創作レッスンに一緒に通っていた。60超の先生(男性)の声に色気を感じた。周囲の母親たちも同じ感覚だった。皆音をよく聞く人達で、感受性が音に集中しているのではと思った。

●自分に欠けているもの、それがあれば完成するのではと思うものに引力を感じ、それが色気になる。その物が持つ周波数に自分が共鳴する。自分の中に融合されると引力がなくなる。

●色気を感じるのと恋に落ちることは関係あるのか?

●色気を感じない人に対して恋に落ちることはない。声には年齢がない。いい声でつまらないことを喋られると腹が立つ。いい声の人は内容もいいものにして欲しい。

●和服を着た男性に若い人が失礼なことを言う場面に遭遇した。その老人が「お前さん、わたしを馬鹿にしておいでだね」と言ったのを聞いて色気を感じた。いつも静かな態度とのギャップ、江戸言葉っぽいものと現代のギャップなど原因は色々あるが、理屈じゃなく感覚だったのかも。

 ※「抗いたい魅力って磁力みたいな感じがしました」

●聞いた側の美意識にかなっていたのでは。突然起きたことであることと、意外性が心をつかんだのでは。

●色気には、自分が何を大事と思うかが反映される。かつて、声のいい先輩がいたが、カラオケにいったときにあまりにも音痴でひいた。いい声を適切に使ってこそ魅力が発動する。着ぐるみで演奏するコンサートでも、演奏だけで心を掴まれることがある。美意識とピタっと合ったときに色気を感じる。

 ※「色気 色っぽい お色気 の区別はあるのでしょうか?」

●日常的に色気を感じるアンテナを立てていない。人に対して色気を思うことに躊躇している部分もある。映画やアーティストのパフォーマンスなら受け取れる。

●普段は色気という言葉は遠いところにある。近くにもってきてアンテナを立てて眺めると、ヨーグルト=健康的、生クリーム=なくてもいいもの、のような対比が思い浮かんだ。桜の花びらのはかなさやしっとり感にも色気を感じる。味わうときに深みが増す。

●鳥同士の恋。ペンギンの夫婦は産卵後オスが見守りメスを食事に行かせる。そういうオスの配慮を排除すると干からびて死ぬ。守ってもらうことを拒絶するのはどうなのか? 男性の色気は戦ってくれること?

●中性的な色気もあるのでは。

●色気を体験した方がいい。アンテナを立てておいた方がいい。自分の気分を良くするものが色気に通じる。自分の世界を色気で満たすことで気分もよくなる。使い分けをしたらいい。会食時たまたま若い男の子が取り分けてくれた。取り分ける手つきが洗練されていたことに色気を感じた。気分をよくしてくれるものの濃度を高めていくといい。

●情報から出てきたイメージによって色気を感じる/感じないが変わる。

●意味付けは色気に関係ある。

●寡黙な人に色気を感じる。ミステリアス。想像を掻き立てる。

●世話人同士で「色気のあるもの/ないもの」を選んだ。その例をいくつか紹介する。

・ジゼル(バレエ)の第一幕と第二幕:第一幕では可憐な村娘姿のジゼルが生き生きと舞い、第二幕では悲恋の末亡くなった後の亡霊の姿で夢幻の中で舞う(生と死の対比)。

・幸田露伴と泉鏡花の文章:前者は漢文的リズムで理知的な文章、後者は視覚嗅覚などの感覚に訴えかける幻想的な文章(明晰と幻惑の対比)。

・モーツアルトとドビュッシーの音楽:モーツアルトは天上から降ってくる音楽、ドビュッシーは午睡のまどろみのような音楽(均整と流動の対比)。

・造花と生花:造花は人工物。命がない。生花には命がある。

・現代の高層ビルとタージマハル:ビルはかっちり作られていて直線的。タージマハルはピンクがかった色で曲線的。作られた背景もある。

・手の親指と小指:親指は働き者で実務的なお父さんのイメージ、小指はあまり役立たないが、指切りげんまんのようにアソビに使われるところや、か弱い感じに色気がある。

●高校の時NHKの放送コンクールに出た。自分はアナウンス部門に出ない方がいいと言われた。アナウンス部門は感情を排して伝えなければならない。朗読部門は逆に強弱をつける。先輩に色気があり過ぎると言われた。相手に想像させる余地をもたせるのが朗読。誰が聞いても情報としか聞こえないのがアナウンス。

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【後半】テーマ:エロい・エモいと「色気がある」の違い
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●色気を感じても、エロさを感じても、恋に落ちるとは限らない。

●エモい、エロい、色気がある。それぞれ出てくる脳内ホルモンが違う。

●エロいという言葉が色気のタブー感を増している?。「お色気」になると意味が変わる。お色気と色っぽいと色気の違いは?

●「エロい」には性欲のようなものが絡むのでは。

●「色気」は粋と通ずるものがある。「エロい」は意味が狭い。「エモい」は自分があまり使わないのでよくわからない。色気が本来の意味で使われるといい。「色気を出す」は欲望を表すこともある。

●「エモい」は自分の中でわきあがるもの。自分の感性。向きが違う。

●感じた人の欲望の量によって違う。「エロい」は性欲を感じる。キュンキュンするに近づくと「エモい」。「エモい」はときめく。人によって違う。色気は吸引力。

●色気は、自分の中に取り入れたいものを相手に見たときにハッとする感じ。

●中学の時に不良っぽい子がいた。先生に授業態度を指摘されたときに「蜂がいた」と言って蜂を逃がした。それを見たときに心の中で何かが動いた。ギャップと、中性的な優しさを感じたからかもしれない。

●「正反対な君と僕」というアニメ。自分にはないものを持っているだけでは色気は感じない。繋がりを意識したとたんに命あるものとして立体的に立ち上がってくる。自分の中にあるものと相手の中にあるものが繋がった瞬間。

●色気には性的なニュアンスがある。「エロい」に近い。恋愛対象に色気を感じるのはわかるが、お菓子などに対して用いることに違和感がある。

●今、職場ではちょっとした言葉がハラスメント扱いになるので「色気がある」は言ってはいけない。相手にとっての害になる。服が似合っているも言えない。その人の魅力の一つに色気があり、それをどう位置付けているかを話すのは難しい。

●パンドラの箱の話にあるように、一番下は死ではなく希望。すべてを包括する生命力には性的なものもある。そのような生命力には抗えない。

●日本刀と包丁。美術品(工芸品)と実用品という差だけでなく、日本刀が武器だということ。血と死を感じる。

●日本刀に色気があるのは、何年たっても変わらない美しさがあるから。眠狂四郎を見て、市川雷蔵の色気を再認した。はっきり見えすぎない、妄想を掻き立てるものが必要。市川雷蔵を目指そう!

●なぜ性的なものを色で表すのか? 女性から見た色は何色?

●女性の色気は色で表しにくい? 紗を通して微かに透けて見えるような質感。

●カラー写真をモノクロにすると色気が出る。

●赤ちゃんの膚の輝きは色気があるのでは。女性から見た色気は、赤ちゃん色のような光に近いもの?

●女性が性的なものを表現するとしたら匂い?

●色は、元は顔色の色。女性は御簾越しに見せるのがセクシー。匂いも重要。元の意味とどんどん変わる。色気は性的欲求と結び付けられがち。お仕着せのお色気に反応したくない。

●いい意味の色気はどこから醸されているのか? 女性でも日本刀的な色気を感じる人がいる。日本刀の色気は殺傷能力を秘めている(行使しない)ことにある。

●色気を感じる領域と深さは個人差が大きい。

●色気の話は普段できない。女性が感じる色気は匂い、に共感。その人が醸し出すもの。男性は視覚で判断しているのでは。

**皆さまのコメントお待ちしています。**