「不幸」は「幸福」の反対語なのでしょうか?「障がいは不便です。でも、不幸ではありません」(ヘレン・ケラー)「不幸」と感じる要素は何なのか、考えてみませんか。
・あなたにとって「不幸は?」と問われると、意外と答えられない。「幸せ」なら答えられるのに。
・不幸と不運は親和性がある。不運は日常が壊れる。
・幸せと不幸の間にあるグレーゾーン(フラットな感じ)は広い。不幸と感じる時には運の問題もある。予想外の事態によってネガティブなことが起こったときに不幸を感じるのでは。一度真っ黒になると継続して黒くなることもある。
・不幸をごちそうと思う人がいる。不幸な人がいるとそこに行く。助けてあげることで注目されるから?犠牲者、聖人になれるから?救世主願望。
・不幸自慢する人は、不幸であることが幸せなのか。
・不幸をごちそうと思う人(犠牲になって注目されたい人)の心情は、「人の不幸は蜜の味」とは少し違う。
・いい人になりたくて人助けに行く人がいる。詐欺師はかわいそうな人を助けてから搾取しに行く。
・人からいい人だと認められないと自分が幸福だと感じられない。本当に幸福な人は、他者の承認を必要としない。
・想定外のことが起きて自分にとって負荷がかかることが不幸。受け止め方次第ではあるが、人からかわいそうと思われたくはない。それはなんだろう…。
・「不幸があって…」という、身近な人が亡くなる表現がある。その言葉を人と距離をとるために使うことがある。自分を不幸に見せたいわけではないけれど。
・洗濯物が雨でぬれてしまった場合は心に傷を受けるほどのアクシデントではないので不幸ではない。不幸は、完全に心に傷がつく状態。 『フランダースの犬』のネロは不幸なのか? ネロ自身が自分を不幸と思った瞬間はそんなになかったのでは? ネロは幸福でさえあったかもしれない。
・「不幸」とは学ぶ概念かも。その概念がないと不幸を感じることができない。
・不幸になりたくないから「考えない」人がいる。その人のことを考えると「無責任」という言葉が浮かぶ。幸福も不幸も受け取ろうとしない澱んだ感じがする。防衛に入っている。幸も不幸も受け取らないことは無責任では。
・ニュートラルな状態があって、幸せと不幸がある。比較対象に気づいた時、不幸と感じるのか。環境最適という考えがある。鳥は空、魚は海が棲み処。一羽の鳥が海にいれば不幸かもしれないが、たくさんの鳥が海にいてみんなが苦しんでいたら、それは不幸?あたりまえ?
・自分の状況を周りと比較して、いい方にいれば幸福だと感じる。自分を不幸と感じることで自分を守ろうとしている時がある。自分がそもそも不幸だと感じていると、なにかが起こっても傷つきにくい?
・不幸に必要な要素は「比較」。一つの町でみんなが一千万円の家を持っていて自分だけ八百万円の家では不幸を感じる。みんなが四百万円の家の中で自分の家が六百万なら幸福に感じる。……それでも八百万の家がいいと考える人もいるけれど。
・自分で自分を守れれば「不幸」を感じない。犠牲者になることが自然だと不幸を感じにくい。
・自分の状況を「不幸」だと認識しないと自分を守れない。
・「不幸」と認識しないまま突き進むと「不幸」にならない?
・「今の自分の状況っておかしくない?」と思う時が、気づきかける瞬間。習慣づけされると安定してしまい抜け出しにくい。不幸に安住したい人もいる。
・不幸を認識するには、ある程度の力がいる。子どもは不幸になりやすい。自力ではどうにもならないことが多い。子どもこそ不幸にさらされている。それが大人になっても持続しやすい。
・平安時代、現代の不幸は前世の責任といわれる時代があった。前世で悪いことをしたと思われたくないから不幸を隠したいという文化が今もあるのでは?また、不幸そうな女性が好きな男性もいる。
・自分の不幸に気付いたあと、やさぐれた時代があった。自分が不幸だから(被害者だから)仕方がない…自己欺瞞、いいわけを無意識に使っていた。
・不幸話(自慢?)をしてくる人がいる。それでも自分はがんばってる、と主張する。それに対して、どう反応したらいいのか困る。
・不幸自慢の人は、それを免罪符にしている。この人はいいわけしてるだけなんだな、と思う。
後半テーマ【「比較」以外に不幸を生む要因はあるのか】
・予想外の不運。こんなはずでは…という思いは不幸を生むのでは。
・選択をする自由・余地がないと不幸と感じる。自分の状況を変だと思っても、他者の価値観を押し付けられてしまい、そこから離れられない状況。
・枠の中で幸福を感じている人も、外から見ると「この人は不幸だな」と思ってしまう。
・潜在意識で不幸を求める傾向があると不幸になる。
・幸福は満ち足りていること。だから、他の満ちているものと比較して欠けたことに気づいて「不幸」と感じる。事故なども自分の予測と比較して不幸と感じている。…結局あらゆることが「比較」に行きついてしまう。
・不幸と感じている時点で、その人は不幸ではないと聞いたことがある。理想があるから不幸と感じる。その人には「理想」があるという点で幸せなのでは。
・子どもが順番にケガや病気をすることがある。母親がそのことに注目しすぎているから?それでも大事にいたらなくてよかったという点もあるのに。幸・不幸の解釈の問題はある。
・突発的でネガティブなことは不幸な要因だけど、それを「考えてしまう」ことも不幸の要因。「不幸」がデフォルトである方が生きやすいかも。
・40代で高齢者施設に行きたいと言った人がいた。理由は、自分で決めなくていい、なにもしなくていいから、とのこと。責任やリスクをとりたくない?
・ネガティブと認識されやすいことも、解釈次第でポジティブにとれる。ニュートラルな部分が広い人は不幸になりにくいのでは。
・たとえ比較してもモノサシが大きければ、たいした不幸にはならない。
・病気やケガに当たり前に不幸というレッテルが貼られていることに違和感がある。健康との比較という基準がある? アトピーで苦しんだときは不幸の認識があったが、長いスパンで見ると、それによって自分の健康について気を付けるようになり、そのおかげか大病はしていない。小出しにした分よかったかも。
・人を見て不幸だなと思うとき、自分の基準と比較している。
・心は追い詰められると体に逃げるという説がある。心そのものを凝視すると壊れるから。同様に、深い問題から目を逸らせるには、個々のわかりやすうい不幸に視線を向けることが有効な場合もある。
・病気を不幸と思っていなくて、チヤホヤしてもらえる機会と考える人もいる。病気をしない人のことを、ダラダラ生きてるからだと評価することさえある。がんばることに価値を置いている。そんな価値観が伝染し連鎖することもある。
・体調が悪くなると視野が狭くなる。感覚が先鋭化して、ますます体調が悪くなる…。逆に、他者と比較することで自分の感覚を正し、そう不幸でもないと感じられることもあった。「比較」を良い方に利用する。
・不幸をポジティブに捉え直すには、ある程度の年齢や経験も必要。
・ネガティブな感情を感じたくないから人に解決してほしい人と、それを解決してあげようとする人がいる。解決してあげようとするとき、相手の感情を勝手に「不幸」と感じている。解決してあげようとしたつもりが、その人の学びをジャマしていた。
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