おなごテツ

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6月27日『魅入られるー華と魔』

「華がある人」や「魔力がある人」には何があるのでしょう?
魅入られてしまう人には何があるのでしょうか?
光を放つ側、闇に惹かれる側、さまざまな立場から考えてみませんか。

・映画「ベニスに死す」では、ビョルン・アンドレセン扮する美少年に惹かれる老教授が、疫病が蔓延する中、命の危険を顧みず彼を追い続けてしまう。美少年の魔に魅入られていた。

・老教授が美少年に何を感じたか。自分の中に欠けているもの、潜在意識で欲しくてたまらないものをその人がもっていたのでは? そこまでのものでなければただのキレイな子で終わってしまう。自分の内面との響き合いの中で魔や華が生まれるのかもしれない。

・魅入られる「場所」もある。ある駅でとびこみ自殺した人がいて、その後も同じことが続いたことがある…。なにか魅入られるものがあったのか。

・華のある美しく完璧な人がいた。面白くて人気もあったけど、この光は怪しい…と感じていた。なぜ影がないのか? つきあううちにわかってきたことがある。その人の母もそういう人だったことで、彼女もそうなりたいと思ったらしい。しかし作為的にしてしまったために、周囲の人は離れていった。作為的なところに「魔」があった? そもそも光と闇は両方ないとおかしいのでは。

・誰しも心の中には人に言えない欲望などがある。自分では具現化できないけど他者がそれを表現していた時「華」と感じるのかも。すごい人気のグループなどは、ファンの中にあった欲求が具現化されているのだろう。また、それと一体化できる、したいと思う時に「魔に魅入られる」のかもしれない。

・「かてぃん(角野隼斗)」というピアニストに「華」を感じる。シンプルな曲も、彼が弾くと華やかになる。ビジュアルや、楽器や曲とも関係ない気がする。この華やかさはなんだろう…と思う。一定の規則に沿っているのか?とても不思議。

・華を感じるピアノの音はノイズがなく純粋なのかも。ごく普通の演奏にはノイズがある。どちらがいい、わるいというわけではないけれど。

・かてぃんさん(ピアニスト)の純粋なクラシックはそれほど面白くない。現代音楽やアレンジのバランスが「華」を生んでいる?自分を壊してくれるところに「魔」を感じる。

・エキストラで芸能人に会った時、芸術品のようだと感じた。華というのは、自分とはちがう世界のことと感じる。魔は心に作用してくる。その人の世界観があり、自分の感じ方が左右されるような気もする。

・できないことを望むことは破滅に向かうこと、魅入られること?

・魔→壊れる→再生の流れがありそうだなと思った。

・トルーマンカポーティの『遠い声、遠い部屋』という小説がある。この作品には魔や闇を感じる。表現に技巧が凝らされていて、読み進めるうちに闇にひきずられていくような作品。普通の人にはとらえきれない過剰なもの…闇が込められている。

・私がベルサイユ宮殿にいったら「華!」と思う。受け止められないほどの「華」。自分の地味な家に戻ったらほっとするだろう。対象との距離というのも、華や闇を感じるひとつの要素。

・谷崎潤一郎の世界についていけない…。高等遊民。働いていないのに浪費、贅沢!おもしろいけど実際にいたらイヤ…。ダークな世界は現実にはなく、小説や映画などで光り輝くのでは。距離があれば楽しめる。

・ジェンダーの問題をあつかう場にいた時、女性たちの行き過ぎた怒りの中に違和感があった。ホワイト社会について語る場の中でも違和感を感じた。白と黒、と分けることへの違和感?

・ビョルン・アンドレセン(「ベニスに死す」の主役の少年)のような美しい顔に生まれて、無自覚に人から美意識を投影されたら…生き方が難しくなるだろう。「魔」が彼を利用した?美を具現化するものとして。美に魅入られた被害者。

・神社に行くと、昼と夜では様子が違うがどちらにも惹かれる。白と黒、両方ある。

・恋愛中、「君は太陽みたいだ」「ずっと輝いていてほしい」と言われても、そうできなかった。ずっと光のままでいてくれと言われても困惑する。お互い光も闇もあるはず。

・恋愛は妄想だから、言わせておけば…。

・魅入られることも妄想なのでは。でもリアリティを感じるから破滅することもあるのかも。

後半

・問い…華と魔、の違いとは。発する方でも受け取る方でも。

・魔=破滅、としたら、華=浄化と言えるかも。どちらにしても、自分とは決定的に距離がある。一体化するほどにはのめり込めない。現実感とかけ離れているに魅入られはするけど、一体化はしない。しかし、距離を埋められない人も、なかにはいる。

・人に対して「華があるね」とは言えるけど「魔があるね」とは言えない。魔はクローズド。華は多くの人に作用する。魔はそうではない気がする。

・「魔があるね」と言われる方がうれしい。自分がクローズドだからか。華のわかりやすい例が「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラとしたら、魔はメラニー・ウィルクス。彼女には底が知れないところがある。メラニーが死んだ時、周囲の人が変わる。スカーレットからは人が離れていく。魔は人を変えていく?

・魔は「飲み込まれてしまう」もの。主体がなく相手まかせ。華は、それを見ている自分がいる。客観性がある。

・華は花で、魔はそれに集まる虫。甘い蜜を享受したくて集まる。でも、魔の花もある。一体化しなければ逃れられるかも。

・ビョルン・アンドレセンが老人になったときの姿はインパクトがあって感動的だった。『ベニスに死す』の中のビョルンの美の一部は作られたもの。あそこまで作り上げたのはヴィスコンティの力。華はダイヤモンドと同じで、誰かが磨いて生まれるもの。自分で磨く人もいる。一方で闇(魔)は生まれ持ったものなので希少価値があり、心を持っていかれるのでは。

・『風と共に去りぬ』のアシュレーこそ、魔。華のあるスカーレットが頼りないアシュレーに魅入られている。それはスカーレットの妄想。自分にないものを求めている。でもアシュレーはスカーレットの想いを受け入れなかったから「魔」たり得た。「魔」であることに無自覚である方が、他者を没入させる「魔」になる。

・『戦場のメリークリスマス』におけるセリアズ(D・ボウイ)。セリアズにヨノイ少佐(坂本龍一)は惹かれていく。セリアスには魔性があった?

・相互作用でつくられた関係。闇にのまれて壊れていく…。

・『戦場のメリークリスマス』の二人は単なる同性愛ではない。セリアズは言葉に尽くせないものを込めてキス(抱擁)した。それは、恋愛よりもっと大きな愛(人類愛、平和)のようなもの…。ヨノイ少佐の方は、そのメッセージを受け止めきれず壊れたのでは。 映画を観ている側としてはセリアズの方に華を感じた。受け止めた側の心で華は決まる?

・無意識に策略として使っている「魔」もある。それがイヤ…。

・絵画でも「華」と「魔」がある。ダリには狂気を感じるが、マグリットはもっと平和的。どちらもシュールレアリズムだけど。受け取り手によって欲するものがちがう。

・「魔」というのは資本主義では重宝される。華は労力や忍耐も必要。ある人の考察で「戦争は引き起こしやすいが、平和を作るのはむずかしい」「人を怒らせるのはカンタンだが笑わせるのはむずかしい」とあった。これと同じことが「華と魔」にも言えるかもしれない。華は手に入れにくい。

・絵を、好きでも飾れないのは華と魔の違いかも。飾りたくないのは「魔」に通じる。

・『戦場のメリークリスマス』には美意識の共有を感じた。

・退廃的な人に「魔」を感じる。それは生きにくそうな人でもあり、だからこそ生きてほしいとも感じる。

・芸術家は闇を昇華して絵にする。それを見る人は自分の闇を刺激されて感じる。表現せずにいると魔性を帯びていく。誰かを助けてあげたい人にとって、それは魅力的に感じるかもしれない。

・華も魔も、日常的に縁のないことだと思ってしまう。物語の世界。人間が作った文化。でも静かに魅入られていることはあるのかも。自然の美しさとか。

・「戦闘機」のデザインの美しさには魅入られるけれど、それは兵器でもある…。

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4月25日『慮るとは』

誰かを「慮る」とき、そこには何があるのでしょうか。
相手を慮っているつもりが自分を慮っていることも。
その背景や相互作用について考えてみませんか。
・なにかを相手に言うか言わないか・なにが基準になっているか? 気持ちを想像している。
・言う側のアクションに対して、言われる側がどう感じるか。そこに相互作用がある。
・受け取り方はわからない。慮ったとしても完全に当てはまることはないかも。日常では、高齢者に電車の席を譲る時、相手のことを慮る。でも相手がどう捉えるかはわからない…。
・慮っているうちに時間が経って事態が変わってしまうこともある。
・人の気持ちはわからないから、推し量ることは不可能。相手にもわからないだろう。だからその後のストーリー展開を想像する。状況に重きを置く。電車なら譲るほうが相手が喜ぶ確率が高いだろうと予測する。
・相手との過去のやり取りによる経験知があるだけでなく、知らない人との間の経験知があり、自分自身の過去の経験によっても慮り方が変わる。過去に席を譲って怒られた経験があれば譲るのをためらうし、経験がなければためらわない。
・自分はエンパス※。情報・感情を広いすぎるタイプ。他者から一本の線でしかつながっていなくても自分は千本くらい感じてしまう。ノイズが多い。状況で判断するように切り替えないかぎり、無駄に吸収してしまう。
※エンパスとは、他者の感情やエネルギーを深く感じ取り、共鳴・吸収する気質を持つ人々を指す言葉です。HSPが幅広い刺激への敏感さを持つ一方、エンパスは特に他者の内面やエネルギーに強くフォーカスする傾向があります。
・慮る時には感性を使っているが、人によって情報量がちがう。
・30歳くらいのときに若い男の子に席を譲られた。慮り方が間違ってないか? 断ったら恥をかかせると思ってお礼を言って坐った。
・常識という共通の基準がある。お年寄りや妊婦さんなど。共通認識に個人の経験が乗っかる。慮る時、自分の経験と常識を天秤にかけている。
・妊婦の時、よく席を譲られた。親子になってからは二人分譲られることが増えた。そこにも常識が隠れている。
・妊婦マークやヘルプマークで最近はわかりやすくなっている。配慮されるとうれしいというアピールにもなる。つけないことで配慮されたくないという意味にもなる。
・妊婦マークで逆に攻撃(ぶつかってこられたり)されることもある。いろんな感情を喚起させている。配慮しろとアピールされるという感じにイラつく人もいる。そういう人は、自分を慮ってほしいのか。
・席を譲らないことで自分が罪悪感をもつのがいやだから、ということもあるのでは。そういう配慮は外面であって、実は自分のためなのでは。
・自分を慮らない「慮り」はあるのか?
・本当の思いやりと違うのは「擬態」(真似)では。衝動がおきた自分が「席を譲る」などの行動しているだけで、本当の思考・感情は動いていないのでは。
・そこで承認欲求が満たされれば報酬を得ることにもなる?
・考えずに反射的にすることは感情が入っていなくて、気兼ねなく受け取れるかもしれない。それは逆にいいこともあるのでは。合理的に慮ってくれる方が。
・常識にもとづいて動くのはわるくない。結果オーライ。
・慮られる側に立った時、どうするか。わかりやすい結果が得られる方がいい。でも、たくさん考えてもらいたい人もいるかも。
・気兼ねさせてしまう慮り方も気になる。受け取る側には重いのでは……。
・すべて受け取る側が決めているところがある。受け取るキャパが大きい人はいいが、キャパが小さい人は受け取り切れないことがある。そこで「遠慮」という別の慮りが生じる。相手も自分と同じ価値観や経験を持っているわけではないことを理解するスキルが必要。
・周囲は受け取れない人ばかり…。だから傷つけたらどうしよう、と怖かった。自分中心に考えている。
・「受け取れない」がわからない人もいる。好意をもって与えられても「重い」と感じるのはなぜ?
・好きな人からの好意は受け取るけど、きらいな人からの好意は受け取れない。人間関係構築が大事。
・好意を発する側が感情をこめ過ぎると、他のことが妨げられる場合がある。慮られる側は感情だけを与えられても、本来受け取れるものが受け取れない。
・いきなり重い球を渡すことはできない。電車で席を譲るのは軽いほう。ある程度の関係性、距離感で重さは調節される。重いものを渡せるのは、お互いはかりあえる関係性があるから。関係性を変えたい時にうまくいかないと、受け取り方に齟齬が生じる。
・「重い」という意味がいろいろある。重い慮りを受けた時「余計なことをされた」と思った。ある試験で全員合格すると思っていた時、一人だけ落ちた。合格した人からの慰められ方が不快だった。合格・不合格で立場が変わったことで関係性が変わったのか。
・慰めたい、励ましたい欲が誰しもある。思いだけがあってボキャブラリーが伴わないとおかしな発言になる。結局は自分が何かしたいという欲を満たしているだけでは。人が何かするときは必ずなんらかの欲がある。
おかしな言葉をかけられた時には、誰もが適切な言葉を使えるわけではないと考え、気持ちだけを受け取ることにしている。
・気の毒な人をみて辛い時、思わず手を差し伸べることは「欲」ではなく「慈悲」では。
・「私はわかってるわよ」というテンションでなぐさめられるとイラッとする。
・友だちが苦境に立っていた時、周囲の人は慰めていたが、そんな慰めの言葉は必要か?と思った。その友だちをそっとしておいてあげたかった。
・漫画やドラマでは懐の深い人がいて、辛い目にあっている人をさりげなく連れ出して楽しい気持ちにさせたりして、直接ではなく間接的にその人が立ち直る道を提供する。皆言葉だけで何とかしがちだが、言葉は役に立たないことが多い。その人のために動く方が効果的。
・学生時代に傷ついた時、友だちの家に泊めてもらった。翌朝、畑仕事を手伝ってと言われて一日はたらいた。そしたら翌日元気に学校に行けた。畑仕事をしたことで元気をもらえた気がする。
・お金もなにもなく辛い時、いろんな慰めを受けたけど、友だちがお米を贈ってくれた時、すごくうれしく励みになった。
・慮る側に、自分の手柄にしようという気持ちが無いときに相手に届く。慰める時、何らかの濁った意図が入ると伝わりにくい。
・つい「大丈夫だよ、私なんてね…」と自分の話をはじめると、相手が立ち上がる気力を削いでしまうのでは。辛い場面に引き戻されるのは苦しいし。
 
〇後半の問い→本当に相手のためだけを考えた慮りはあるのか?
・慮りには相手を思う気持ちも、自分の欲も含まれているので、純粋である必要はない。慮りではなく「愛」はあるかもしれない。
・愛と慮りは違うのか。愛ある慮りがあっても、なんらかの濁りはある気がする。
・純粋な慮りがあったらいいなとは思うが、慮りという言葉で表されるものには多少の濁りがある。どこかに自分を守る意図が入る。愛には濁りはなく、すべてを投げ出し得るのでは。
・「慮り」は誰にでも平等にする「配慮」。それによって自分は公平だ、いい人だということをアピールできるのでは。「愛」は、特定の相手に対してできるのあって、誰にでもできることではない。愛の方がエネルギーがいる。
・慮りというのは、条件を考えてするもの。愛は、そうせざるを得ない思いでするもの。それをしないという選択肢はない。
・相手を慮る行為をしていたが、欲が出て別の解決法を試したくなり、それまでのことをやめてしまったら、相手が喜ばなくなって関係性が変わってきた。
・同情するなら金をくれ、は真実かも。言葉だけで何もしない人は役に立たない。自分の身を削るかどうかで判断している? 言葉はどこか侮られるところがある。自分のエネルギーをいかに差し出すかが問題。
・人に時間を使わせるのはその人の命を貰っていること。何かしてもらう、物をもらうというのは重いこと。そこに純粋性が隠れているかも。
・してはいけないことをしない、という慮りもある。
・貧乏人からのなけなしの100円と、お金持ちからの100万円をくらべたら、前者の方が価値がある。環境によってその人がどれだけ投げ出しているかがわかる。
・とある作品に、貧しいものから受けた施しは忘れてはいけない、というセリフがあった。
・本の言葉に救われることがあるのは、それは作者が身を削った言葉だからではないか。
・自分が考える根拠、軸は他人。無駄なことをいろいろ考えている。なにかをしてもらった時、相手の基準がわかる。その時、自分はそこまではできないと思う時、この人は思いやりがないと思われるんだろうな…と感じてしまう。
・受け取れない時、「お返し」が気になるのでは。
・はじまりが「相手」である時、慮りの純粋性があるかも。なにもできなかったとしても内側にある。
・なにかを贈りたい時、相手が「お返し」を意識しているかもしれないと思うと、贈ることが気になる。
・解決法や正解を探してあげたいという気持ちがある。
・カウンセリングを学んだとき、解決しようとしないということを学んだ。聞き手がすっきりしたくてアドバイスしてしまうのが、一番やってはいけないこと。解決しようとせずに根気強く聞き続ける方法がベター。相手の心の荷物を一緒に持ち続ける。身を削ってエネルギーを使っているときしか届かない。
・慮る側が「納得」したい時がある。そのために何か余計なことを言うことがある。言われた側にそれが合わない時、齟齬が生じる。求めるものが違う。
・常識やテクニックが欠けている時、慮ったつもりが周囲を不快にさせることもある。
・現実はただ起きていることなのに、それがショックだった時、それを「できたのに」と言われると、できなかったことが大きく響いてくる。なんの根拠もなく「大丈夫」と言われるようなときも同じ。

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3月28日『色気とは』

あなたは何に色気を感じますか?

エロスと似ているようで、違いもある。

人だけでなく、文章、音楽、陶器、 或いはストイックな生き方、翳や欠落に色気を感じることも。

色気が何から生まれるのか…考えてみませんか?

まず、参加者のみなさんに次の3枚のスライドを見てもらいました。

このあと、スライドの問いに答えるところからスタートしました。

●カトレアの方が繊細、そこに色気を感じた。ベネチアングラスは芸術的で洗練された美しさがある。

●ひまわりは堂々として見えすぎるあたりが色気を削いでいる。色気は曖昧。チョコレートがしだれている、乱れたものときちんとしたもののズレに色気を感じた。タンブラーに色気を感じたのは、背景が揺らいでいるから。これを使っている状況を考えたときに、タンブラーに匂いを感じた。珈琲の香りとか雑踏とか。

●タンブラーの写真には男性的な色気を感じる。ひまわりも男性的な力強い色気。カトレアやベネチアングラスは女性的な色気。

●幼少期に女性性を排除し、男性のようになりたいと思ったのがいき過ぎて兵士のような生き方をしてきた。色気=キモいと思い、反対を選んでしまって人生損した。おせんべいについては美しい女性が食べていたらまた違うかも?

●物にはあまり色気を感じない。タンブラーの写真に情景が見えた。

●おせんべいは主食になりうる。そこには色気が必要無い。チョコレートは食べるととろける。無くても済む。余白、不必要が色気に通じる。タンブラーの中に入るものは必要な飲料。ワイングラスに入るものはなくても済むもの。特別感。

●子供の創作レッスンに一緒に通っていた。60超の先生(男性)の声に色気を感じた。周囲の母親たちも同じ感覚だった。皆音をよく聞く人達で、感受性が音に集中しているのではと思った。

●自分に欠けているもの、それがあれば完成するのではと思うものに引力を感じ、それが色気になる。その物が持つ周波数に自分が共鳴する。自分の中に融合されると引力がなくなる。

●色気を感じるのと恋に落ちることは関係あるのか?

●色気を感じない人に対して恋に落ちることはない。声には年齢がない。いい声でつまらないことを喋られると腹が立つ。いい声の人は内容もいいものにして欲しい。

●和服を着た男性に若い人が失礼なことを言う場面に遭遇した。その老人が「お前さん、わたしを馬鹿にしておいでだね」と言ったのを聞いて色気を感じた。いつも静かな態度とのギャップ、江戸言葉っぽいものと現代のギャップなど原因は色々あるが、理屈じゃなく感覚だったのかも。

 ※「抗いたい魅力って磁力みたいな感じがしました」

●聞いた側の美意識にかなっていたのでは。突然起きたことであることと、意外性が心をつかんだのでは。

●色気には、自分が何を大事と思うかが反映される。かつて、声のいい先輩がいたが、カラオケにいったときにあまりにも音痴でひいた。いい声を適切に使ってこそ魅力が発動する。着ぐるみで演奏するコンサートでも、演奏だけで心を掴まれることがある。美意識とピタっと合ったときに色気を感じる。

 ※「色気 色っぽい お色気 の区別はあるのでしょうか?」

●日常的に色気を感じるアンテナを立てていない。人に対して色気を思うことに躊躇している部分もある。映画やアーティストのパフォーマンスなら受け取れる。

●普段は色気という言葉は遠いところにある。近くにもってきてアンテナを立てて眺めると、ヨーグルト=健康的、生クリーム=なくてもいいもの、のような対比が思い浮かんだ。桜の花びらのはかなさやしっとり感にも色気を感じる。味わうときに深みが増す。

●鳥同士の恋。ペンギンの夫婦は産卵後オスが見守りメスを食事に行かせる。そういうオスの配慮を排除すると干からびて死ぬ。守ってもらうことを拒絶するのはどうなのか? 男性の色気は戦ってくれること?

●中性的な色気もあるのでは。

●色気を体験した方がいい。アンテナを立てておいた方がいい。自分の気分を良くするものが色気に通じる。自分の世界を色気で満たすことで気分もよくなる。使い分けをしたらいい。会食時たまたま若い男の子が取り分けてくれた。取り分ける手つきが洗練されていたことに色気を感じた。気分をよくしてくれるものの濃度を高めていくといい。

●情報から出てきたイメージによって色気を感じる/感じないが変わる。

●意味付けは色気に関係ある。

●寡黙な人に色気を感じる。ミステリアス。想像を掻き立てる。

●世話人同士で「色気のあるもの/ないもの」を選んだ。その例をいくつか紹介する。

・ジゼル(バレエ)の第一幕と第二幕:第一幕では可憐な村娘姿のジゼルが生き生きと舞い、第二幕では悲恋の末亡くなった後の亡霊の姿で夢幻の中で舞う(生と死の対比)。

・幸田露伴と泉鏡花の文章:前者は漢文的リズムで理知的な文章、後者は視覚嗅覚などの感覚に訴えかける幻想的な文章(明晰と幻惑の対比)。

・モーツアルトとドビュッシーの音楽:モーツアルトは天上から降ってくる音楽、ドビュッシーは午睡のまどろみのような音楽(均整と流動の対比)。

・造花と生花:造花は人工物。命がない。生花には命がある。

・現代の高層ビルとタージマハル:ビルはかっちり作られていて直線的。タージマハルはピンクがかった色で曲線的。作られた背景もある。

・手の親指と小指:親指は働き者で実務的なお父さんのイメージ、小指はあまり役立たないが、指切りげんまんのようにアソビに使われるところや、か弱い感じに色気がある。

●高校の時NHKの放送コンクールに出た。自分はアナウンス部門に出ない方がいいと言われた。アナウンス部門は感情を排して伝えなければならない。朗読部門は逆に強弱をつける。先輩に色気があり過ぎると言われた。相手に想像させる余地をもたせるのが朗読。誰が聞いても情報としか聞こえないのがアナウンス。

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【後半】テーマ:エロい・エモいと「色気がある」の違い
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●色気を感じても、エロさを感じても、恋に落ちるとは限らない。

●エモい、エロい、色気がある。それぞれ出てくる脳内ホルモンが違う。

●エロいという言葉が色気のタブー感を増している?。「お色気」になると意味が変わる。お色気と色っぽいと色気の違いは?

●「エロい」には性欲のようなものが絡むのでは。

●「色気」は粋と通ずるものがある。「エロい」は意味が狭い。「エモい」は自分があまり使わないのでよくわからない。色気が本来の意味で使われるといい。「色気を出す」は欲望を表すこともある。

●「エモい」は自分の中でわきあがるもの。自分の感性。向きが違う。

●感じた人の欲望の量によって違う。「エロい」は性欲を感じる。キュンキュンするに近づくと「エモい」。「エモい」はときめく。人によって違う。色気は吸引力。

●色気は、自分の中に取り入れたいものを相手に見たときにハッとする感じ。

●中学の時に不良っぽい子がいた。先生に授業態度を指摘されたときに「蜂がいた」と言って蜂を逃がした。それを見たときに心の中で何かが動いた。ギャップと、中性的な優しさを感じたからかもしれない。

●「正反対な君と僕」というアニメ。自分にはないものを持っているだけでは色気は感じない。繋がりを意識したとたんに命あるものとして立体的に立ち上がってくる。自分の中にあるものと相手の中にあるものが繋がった瞬間。

●色気には性的なニュアンスがある。「エロい」に近い。恋愛対象に色気を感じるのはわかるが、お菓子などに対して用いることに違和感がある。

●今、職場ではちょっとした言葉がハラスメント扱いになるので「色気がある」は言ってはいけない。相手にとっての害になる。服が似合っているも言えない。その人の魅力の一つに色気があり、それをどう位置付けているかを話すのは難しい。

●パンドラの箱の話にあるように、一番下は死ではなく希望。すべてを包括する生命力には性的なものもある。そのような生命力には抗えない。

●日本刀と包丁。美術品(工芸品)と実用品という差だけでなく、日本刀が武器だということ。血と死を感じる。

●日本刀に色気があるのは、何年たっても変わらない美しさがあるから。眠狂四郎を見て、市川雷蔵の色気を再認した。はっきり見えすぎない、妄想を掻き立てるものが必要。市川雷蔵を目指そう!

●なぜ性的なものを色で表すのか? 女性から見た色は何色?

●女性の色気は色で表しにくい? 紗を通して微かに透けて見えるような質感。

●カラー写真をモノクロにすると色気が出る。

●赤ちゃんの膚の輝きは色気があるのでは。女性から見た色気は、赤ちゃん色のような光に近いもの?

●女性が性的なものを表現するとしたら匂い?

●色は、元は顔色の色。女性は御簾越しに見せるのがセクシー。匂いも重要。元の意味とどんどん変わる。色気は性的欲求と結び付けられがち。お仕着せのお色気に反応したくない。

●いい意味の色気はどこから醸されているのか? 女性でも日本刀的な色気を感じる人がいる。日本刀の色気は殺傷能力を秘めている(行使しない)ことにある。

●色気を感じる領域と深さは個人差が大きい。

●色気の話は普段できない。女性が感じる色気は匂い、に共感。その人が醸し出すもの。男性は視覚で判断しているのでは。

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2月28日 『山月記を読んで』

中島敦の『山月記』はご存知の方も多いと思います。

虎は何を象徴しているのでしょうか。

主人公の李徴は何故虎になってしまったのでしょうか。

青空文庫にテキストがあります。当日までに読んできてください。

www.aozora.gr.jp

【『山月記』を読んだ感想】

・文体が簡潔で美しい。完成度の高い作品。早逝した作者の人生を考えると、主人公の李徴(リチョウ)と作者の哀しみが重なり、単なる作り話でなく心に響いてくる。自尊心、羞恥心、執着などがテーマになっているが、色々考えさせられた。

(著者は、1942年、33歳で(持病の喘息悪化で)没)

・教科書で読んでいない人も多い。今回はじめて読んだけれど当時の多感な時期なら印象が残っただろうと思う。今の感覚でも自尊心等については考えさせられてしまう。

・教科書で読んだ。美しいけれど、漢字が多く難しい…。厨二病の人が虎になったみたいな話?どうして虎なのか?選んだ?他の動物ではなぜないのか?

・教科書で読んだ。人生でも三本の指に入るくらい自分に影響を与えたと思う。自我の取り扱いがまだわからない年代に読んで考えさせられた。元ネタになった中国の話(人虎伝)もあるが、人間的生々しさがあり、さほど共感できなかった。著者が虎に投影され昇華されていると感じる。

・なぜ教科書で採用されたのか。調べてみると、文科省や教師が自尊心の問題として読ませたがったという論文があった。教科書で読んだ人は何らかの誘導を受けていた? また、中国の山間部では虎は普通にいて襲われることもある。「苛政は虎よりも猛し」(民衆を苦しめる厳しくて残酷な政治は、人を食う虎よりも恐ろしいというたとえ)という話もある。陳腐な自尊心を象徴していたのかもしれない。今読むと、主人公よりも友だちの袁惨(エンサン)の方が面白い。袁惨は詩の良し悪しもわかるし、複雑で奥深い。

・教科書では読んでいなくて、今回はじめて読んだ。設定はよくある漫画的な面白さ。じっくり読むと考えさせられるところもあった。自分も厨二病か…と思ったり。著者は著作を友人に預けていることから、彼自身を虎に投影しているのか?と思った。

・虎ってなに?泥酔すると理性がなくなる。DVやアル中などと重ねてしまう。友人の袁惨は虎の両面を知っていて、虎の詠んだ詩にも欠けたところを感じる。虎は枠を超えられていない。でもすべてを受容しながら話を聞いている袁惨が美しい。小説は美しくまとまっている。

・中国の友人に見せたら、作中の詩はそんなに良くない…とのこと。ちょっと滑稽?それは袁惨もわかっていただろう。彼の詩に対する袁惨の感じたところは、作中でも重要な場面だと思う。臆病な自尊心や尊大な羞恥心に悩まされる人は今もいる。ただ、それに気づかないまま年をとっている人も多い。現代でも無縁ではないこと。李徴は気づいているだけマシ…。

【問い『なぜ、虎になったのか?』】

・虎は孤高のイメージ。畏敬の念で見られる。自分はまだスゴイと思う心がある。他の動物ではだめ。でも、中国ではそれほどすごい存在ではないらしい。しかし、あえてそこまで含めて虎だったのか?とも思う。

・秀才を虎と例えられた。虎が死んだら皮を残す。人が死んだら名を残す…みたいな歌がある。主人公も、名は残せなくても皮は残せるという意図があったのか?

・虎は見た目がカッコいいし、この作品の魅力は読んでいて画が頭に浮かぶこと。虎には一人ぼっちのイメージがある。また、人の上に立てる存在であるという含意もあるのでは?虎となってからも、言葉では謙遜しつつ「俺が」という捨てきれない自我がある。言っていることは惨めで卑小だが、姿だけは美しいというギャップがあり、よりいっそう哀しさがつのる。

・気づいたらウサギを食べていたというくだりに衝撃を受けた。残酷な動物になってしまったという主人公のショック。虎にとっては自然なことだけれども…。人間の心を忘れてしまえば楽なんだろうけど。自尊心を持て余している。

・虎は猫に似ている。どちらも動きが美しく孤高。爪や筋肉も美しい。でも動物を襲えば衝動的に残酷な面が出てしまう。

・人は誰もが猛獣使いだ、というくだりがある。人間だった頃も虎になってからも孤独であることに変わりはない。人間だった頃も、尊大な羞恥心ゆえに人と交われなかった。

・尊大な羞恥心は、自尊心とも重なる。どうなろうと人に認められなければ自分を保てない人なのか。それは他人軸。自尊心と羞恥心の檻の中にいた。

・尊大な羞恥心と言っているが、それは自我が肥大して、自尊心が極まって逆転したもの。大きくなりすぎて厄介なものが猛獣なのでは? 認められたいけど認められない。その中で自分の位置を高くするために他者を下げたかった。

・虎は孤独のイメージ。主人公の妻子はその存在が薄い。孤独感に家族は関わっていない。誰にも内面を理解してくれないという孤独。友人の袁惨はわかってくれているのに、そのことにさえ気づかない。プライドが自分にしか向いていない。

・主人公は、社会的な承認を求めていた人。現代にもいる。家族からの承認は要らない。自分は恥ずかしがり屋だっただけなのに尊大だと思われていた…と感じている。臆病な自尊心を抱えて暴れる人っている。社会的に適応しにくいから悪循環になる。虎になったのは一番強い動物だから。自分より強いものには突っかかれない。

・高すぎる自尊心をもつ人はペルソナをつけている。男性は負けることを嫌い、恥を隠す。主人公も目的はペルソナに向いている。詩人として名を上げたいとか。虎はペルソナの象徴。


【後半、参加者からの問い出し】

・教科書に乗らなくなった理由

・教科書に載らなくなっても、青少年には必要な文学なのか

・あなたの心の中に猛獣がいるとしたら、それはどんな猛獣?

・李徴のように虎になってしまったら、もう人間には戻れないのか?人間に戻る機会があるとすれば、それは何がきっかけになるか?

・李徴にとって、虎になったことは報いなのか、救いなのか。

・一流の作品となるのに欠けているところとは。

・「才能があるのに認められない」ことと「才能がないことを知る」こと どちらが身に沁みますか?

・なぜ何かを遺したくなるのでしょうか?

          

【多数決で決まった問い】

「あなたの心の中に猛獣がいるとしたら、それはどんな猛獣?」


・猛獣は怒りやエネルギー。生きていくうえでは必要。でも自分にはすくない。それを食べてしまっている存在が自分の中にいるのかも。見えない猛獣。わかりにくい。得体のしれない猛獣に対応できる猛獣使いはいない。

・ポケモンのベトベトン。しつこく聞いてしまう。

・人付き合いを怖いと思う猛獣。コミュニケーションがうまくないので閉じこもっていた方がいいのかな…と。動物にたとえると小さいネズミみたい。

・ライオン。なぜならしし座生まれ…。家族思い。怒ると怖い。だから自分の中の猛獣と付き合うために怒らないようにしている。世間とうまくつきあえる。

・核に不安がある。噛まれるウサギ?噛まれるだろう…という恐れ。それが出てくると、私らしさがなくなる。暴れないようにするには、ネガティヴ思考に気づく。

・批判したくなる欲が若い頃は強かった。年を取って薄くなった。熊・狼レベルの猛獣がハムスターになったが、ハムスターも実は歯が鋭くて噛まれると痛い。噛もうとしたら噛めるけど敢えてやらない

・従順な柴犬。でも知らない人に自分の飼い犬みたいな扱いをされるとキレる。

・猫の皮をかぶった虎。社会人として普通にしているけれど、虎の目線、虎の性根がある。取って食いはしないけれど…。自分の虎性は猫との落差。猫的だけど猫とはちがう。

・ステージで底知れぬパワーを出すミュージシャンのパワーも猛獣?

・弟から強いと言われる。でも弟の真似をしても辛い。出してはいけないと思っているものは強い。でもここぞという時には出る。悪いものではない。

・不安症。人を攻撃するより自分を攻撃してしまう。猛獣使いとしてうますぎて、自分の中の猛獣が出てこない?


【今日の感想】


・臆病な自尊心と尊大な羞恥心…現代にも通じる話、ということも印象的。

・袁惨のように穏やかでいい人が近くにいたのに離れてしまったのは残念。詩に何か欠けたところがあると言ったのは批判ではなく、友を想う哀しさではないか。袁惨のこのくだりも重要な要素だったのではないか。作者自身も自分の才能を計りかねていた不安があったかもしれない。

・現代の授業では言葉も古く扱いづらくなっているかもしれないが、若い時に読む意味はあると思う。自我との付き合い方を考えさせられる。著者が若かったからこそ書けた。短く美しい文章が響く。

・自分の猛獣も晒していこうと思っている。

・混沌とした感じが面白いと思って読んでいたが、自分の中の猛獣をコントロールするものがある、と聞いていて思った。

             

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12月27日 『なにを失えばあなたはあなたでなくなるか』

哲学者デカルト曰く。 "我思う、故に我あり"
思考している我だけは疑い得ないのかという哲学的問いもありますが、あなたがあなたであるために欠かせないものは何でしょうか。
自分なりの答えを探るため、1年を振り返り、来し方 行く末をぼんやり見渡しながら考えてみませんか?

……まず、今年の漢字一文字を発表しました。

・「送」親を見送った。自分も諸々背中を押されて前に送られた。
・「捨」実家仕舞いなど。
・「平」ふつうっていいな。
・「挑」なにかしようと。
・「動」一年、行動したかな、と。
・「学」本を紹介してもらったり、学びにいったり。
・「和」自分に欠けているから。
・「始」資格がとれてスタートラインに立った。
・「失」別れなどで大きなものを失った。
・「変」引っ越し、考えの変化など。
・「縁」いろんな人と出会ってつながった。
・「悪」これを心で統合するといいこといっぱい。

……ここから今回のテーマで対話を始めました。

・人を失くすと自分ではなくなる。人と話し、関わることが自分のコア。
・感受性。パッと直感で感じることが多く、同じ場にいても自分だけが感じることがよくあるから。感受性でとらえたことが少数派であった時、自信があるかは五分五分で、答えを出すのには時間がかかる。でも違和感は確実に感じる。
・嗅覚。生理的なものだけでなく「怪しさ」などに感じる嗅覚も。
・自由であること。それがなくなったら自分ではなくなる。自由であることは気持ちがいい。ただ、それはある程度制限のあるなかにある自由。
・笑い。ギスギスした空気を緩和したくなる。和やかな空気がほしい。
・悪。善でなくてはいけないと思っていたが、それでひどい目にあってきた。悪を知らないと善も見つけられない。自分を守るために悪を知らないと。抑圧してきた悪を取り込んでみたら善だった。いい人でなければと言われてきたが、悪を知ることで善がわかった。
・人の相談を聞く時辛い時がある。愚痴を言うことはダメだと思っていたが、自分の中にもあると知って許したことで相手を思いやれるようになった。「悪」を認めるところに共感した。
・好奇心。すべての行動の軸になっているから。どうして?という疑問が湧くから突き詰める。わからないことを追求する。嫌な人の背景も気になったり。ただ、人間関係でストレートには聞けない。相手がネガティブな態度をとった時は、聞く前に自分で調べたり考えたりする。どうしても聞きたい時は、やわらかく尋ねてみる。
・優しさ。相手からひどいことを言われても自分は言えない。結果的に自分が傷つく。あとになってから嫌だったことを嫌だと伝えたけれど、タイミングを逃してうまくいかなかった。瞬発的な怒りをもてたらいいのに。
・「優しさ」に共感。相手から「辛い、助けて」と言われた時、「優しさ」からというよりも、自分を置き去りにしてしまう。自分の気持ちを置いたまま相手の世界に一緒に入ってしまう…。ただ、率直に自分の感じていることをサラッと伝えること(攻撃に変えるのではなく)を意識している。伝えたいことも同様にスッと伝えられるとよい。
・「優しさ」に共感。ショックを受けた時は、状況を理解することが先で、あとから怒りがわいてくる。けれど、タイミングがずれているので今更言えない…となる。だから、とにかく怒りや感情は自分で観るようにしたことで、わかりやすくなった。アイメッセージ的に自分の気持ちを伝えて話すようになったら、相手も聞いてくれるようになった。
・基本的には人を救いたい。でも本当には救われたくない人もいる。そういう人は放っておくことにした。
・誰かに愚痴られても「めんどくさい」と思うだけ。アイメッセージ的に自分の気持ちを伝える時、つい余計なことも付け加えて言いがち。それではうまくいかない。「めんどくさい」は余計なことはしない、楽しいにつながるのでは。
・感情は素直に出すようにしたらパートナーとうまくいくようになった。相手の気持ちを考えすぎて、自分の気持ちを棚上げにすることは対等ではない。自分の気持ちは自覚することがまず大事。伝えるかどうか、伝え方は次の段階。

☆ 後半テーマ「優しい行為ってどういうこと?」

・優しさには実体がない。受け取った相手がそう感じない限りそうはならない。
・優しいキモチを持っていても、なにもしないこともある。それが優しさであることも。優しさには「自分のため」も入っていることがある。
・優しくしなければと思う時、そこには罪悪感、加害恐怖もある。利他的な人間ではないから、後からイライラしていたと気づくことも。
・優しさは主体的なもの。気分が良い時に優しくする。気分よくなくなれば、それは自分に優しくないこと。公平に気分よくなるのが優しさの基準。喧嘩することも自分への優しさになることもある。相手を慮ることだけが優しさではない。
・現状を理解したくて聞くという行為は「優しさ」というより、理解して対策を講じようとする行為。相手の心に何が起こっているかということに全集中する時、それは知的な行為である。
・「優しくありたい」と思っても、それはあり得ない。結果的に「優しい行為だった」と周囲が理解するだけ。
・優しい親でありたいと思ってきたが、それをやめたいと思った。保身のために優しさのように関わってきたこともあった。だから、ジャッジせずただ見ていることにしようと思った。それでもそれは「優しさ」に近いと感じる。
・自分から優しくしようと思ったことはない。でも、人からはそう見えているかも。傷つけたくなくてやわらかくしたりはするが。優しく見える行為をすることで、自分を守っているだけ。優しくない行為こそ、相手への優しさであることもある。わかりやすい優しさとわかりにくい優しさがある。
・「優しいというより親切だよね」。親切であるということは社会を生きていく上で必要。親切は心がなくてもできること。善と光の人になろうとすることが間違い。お互い親切にして平和にやっていくことが大事。
・遠慮はいらないけど配慮はしあおうという言葉がある。いいな、と思う。家族からほったらかしにされると気持ちいいこともある。それは配慮。「しない優しさ」もある。
・優しさではなく知的行為として現状理解を全力でしていたのでは、ということがすごく腑に落ちた。私のために相手の状況を理解しようとしたのに結果的に私のためにならなかったから、自分の労力が相手の自己理解に一役かっただけ…。ということは優しい人になったという飛躍があった気がする。
・優しさも親切も、世の中を円滑に動かすスキル。自分に優しくするときには喧嘩も辞さない。喧嘩する時には「あなたを理解したいから、あなたの言動について教えてください」と言うとよい。その行為は、実は「優しさ」と同じこと。
・優しいを手話で表すと、空間をやわらかくする形になる。「優しいね」は、相手を評価するあたりさわりのない言葉でもある。
・優しいには相互的な作用(浸潤、浸食?)がある。「思いやり」「優しさ」「配慮」の違いも気になってきた。
・欲しいものをもらった時「優しい」と感じる。話していて「そうですね」と言われるのはうれしい。相槌をうたれるだけでもうれしいと感じる人も。「思いやり」は満たされた時に、「配慮」は、場を円滑にしてくれた時に感じる。
・思いやり、配慮は大事。優しさという茫漠としたものよりそちらを大事にしたい。思いやりも配慮も想像力が必要。自分に対しても思いやりや配慮は必要。感情をどうこうしようとするのは大変。知的作業(あいてを知ろうとすること)は大事。そこで冷静になると穏やかにいられるのではないか。

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11月22日『感情が溢れるとき』

想いが溢れるとき、私たちの内部では何が起きているのでしょうか。
それは情熱? あるいは……
何が溢れるのか、溢れている人を見るとどう感じるのか、一緒に考えてみませんか。

・母は「想い」があふれる人だった。家族は困惑しつつも愛されキャラだった。

・「感情」と「想い」は同じもの? 「感情」は言葉になっているのだろうか。母は感情(湧き上がるエネルギー)のままに話す人で、なぜそうなったのか根拠を話してもらわないとわからない。

・「感情」を意識化したものが「想い」? 「感情」はエネルギーの流れで、「言葉」とは違うもの。

・子どもがガンダムの話になると興奮して話し続ける。それは本人も止められないらしい。止められるかどうかは体力にも関係ある? 体力が落ちると疲れて続かないかも。

・子どもは、溢れているものが「想い」か「感情」か区別がついていないかも。

・母と姉が激情型…。「感情」は垂れ流すもので、「想い」はある程度形になってから飽和状態になると溢れるもの。自分自身はあまり溢れない。

・「感情」は溢れることは少ないが、意に反して涙が出たり不安にかられることはある。過労が重なった時とか。「感情」がコントロールできないのは怖い。「言葉」で意味づけできると安定してくる。

・「感情」や「思考」は、自分のものではないものも入ってくることがあり怖い。

・母と話していると主語がなくて意味がわからない。でも直らないのであきらめてもいる。人間はフクザツだから言葉にできない、めんどくさいと言われたことも。

・母の場合、日常のちょっとしたことで言いたいことが溜まっていき、取りあえず出したいだけだったかも。溜まったものを人に投げ渡す感じ。人の話を聞くコツとは、言葉の意味は聞かず、その人のエネルギーだけを見る(表情、声の調子など)。

・「感情」をぶつけてくる人は解決を求めている気もするから、意味をとらずにいられない。なんとかしろと言われているようで。ただ、それに共感できないとき、「私は感情のゴミ箱ではない」と言いたくなる。

・私から見て、「感情」の説明で一番わかりやすいのは、境界線が全くない色彩や光やさまざまな形だけの抽象画のようなイメージ。その人以外解釈ができないようなもの。抽象画は解釈されるとアートではないとも言う。

・自分の「感情」に共鳴してくれる人がいればうれしいが、甘えと押しつけであれば迷惑。

・「言葉」をつかえない人はコミュニケーションがとれないからさみしい。「感情」を伝えたい時ドーパミンが出ているのでは。喜びからの人の話はエンドルフィンが出ていて依存心がないから、聞くことができる。

ピカソの泣く女の絵には、反戦感情も含めさまざまな悲しみが入っていて、感情があふれているよりもむしろ閉じ込められている。内部で多方面に反射しているものが漏れ出てしまっているところに美しさがあるのでは。

・感情が溢れる人は芸術家の素質があるのでは。そのなかにアイデアがあれば、なにか凄いものが誕生するかも。

・「感情」は抑制して客観的になれてこそ表現できるのでは。

・このテーマで「母」がよく出てくるのは、娘にその役割があるからかも。

・世間的には立派な人でも、娘に対してだけは感情のゴミ箱扱いにしている人もいる。

・母の世代には主体性がない。自分で決められない。抑圧されていたから? 保守的になっている。

・将来は、「母」の世代に限らず出てくる問題では。ある認知症の妻を介護している夫の俳句を読んだとき、感情の解像度を高めカタチを変えて表現することで人に伝わるのだと感じた。

・自分に対して客観的になれるかどうか。「想い」を伝えられても、周囲が受け止められないことがある。聞く人が不快にならないかどうかというセンサーもあるといい。

・自分の話が伝わっている、聞いてくれている人がいる、と思った時、衝撃だった。ずっと話を聞いてくれていた友人が、以前の話とつなげて理解してくれた時、とてもうれしかった。

・聞いてもらえたという感覚をもてない人は、ずっと空腹のままの人のようだ。

・むしろ感情を出せる人がうらやましい。私はいったん飲み込んで考えてしまうタイプなので、「ムカつく!」とか言える人がうらやましい。人に伝える時には自分のなかで決着がついている。すぐに感情を出せる人の方がコミュニケーションがとれるのでは。感情が出せなさすぎるのも相手に迷惑をかける気がする。

・感情が溢れることは必ずしも悪いことではない。整理されていないものを出し切った後に表れてくるものがある。誰もが論理的に整理して話せるわけではない。自分がゴミ箱にされたとしても、少し我慢して聞くと豊かさが見えることがある。また、自己完結するとコミュニケーションを取らなくなる。時には感情を出すのもバランス。

・母に理不尽なことを言われてイラッとすることがあるが、これも「感情」。イラッとしなければ、ネガティヴを受け止め続けなければいけないから、イラッとすることも必要。「感情」は生きるうえで必要なセンサー。抑えつけない方がよい。

・「感情」だけで話し続ける人は相手を傷つけることが多いが、論理的に返されると怖い。論理的に聞き、問い返す側も相手を傷つけるのではと恐れがちで、双方に「怖さ」がある。

・バカと賢い人が喧嘩すると必ずバカが勝つ不思議がある。賢い人は撤退する。

・論理的に語る人は時間的にロスがあり、勢いのある感情的な人に負けるのでは。そして勝ったほうは、そのことに味をしめる…。

・ポジティブな感情を出されてうれしいこともある。赤ちゃんの笑顔みたいに。

・聞き手の度量が大きければ、感情的な話にも聞く耳をもつことができる。しかし関係性やその日の体調、環境によっても度量の大きさは左右されるかもしれない。

・「感情」を言葉にする時は目的がある。それによってモヤモヤの表出の仕方も変わる。目的がないと「感情」の意味づけができず苦しい。

・要約するときは目的に捉われがちである。それによって零れ落ちるものが出てくるが、それが大事なものである場合もある。

・子どもの頃の躾で倫理的に自分を制御できると、感情的になり過ぎずに自分の中で考えられるようになる。自分の中で要約・編集作業をしていくと、考えが進んで納得できるようになる。

・感情が溢れそうになったらカラオケで発散させるとかもいいかも。

・「緩衝材」という意味で、カラオケはその象徴かもしれない。

・ラップという表現は怒りを表現しているようで、生の感情ではなく設えられた怒りである。その作為がわからない人も、できあがったものに感情を乗せることができ、循環が生まれる。自分の感情を表現したり、乗せることができるツールがあれば良いかも。

・人生で何度か歌を聞いて涙が溢れたことがある。何が溢れているのかわからないまま号泣した。それは言葉にする必要が無い。言葉で表されたものは、その人が本当に表現したかったものなのか? それはすべてではないのでは?

・人は自分に嫌われるのがいちばん怖い。外側は自分を投影しているだけ。人を傷つけた時、それを言葉にできなくて傷つけた側も傷ついているかも。でもそれを認識できず繰り返している人はかわいそう。認識することが大切。

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8月23日『贅沢と無駄』

マリーアントワネットは「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」といったとか。日々のちょっとした贅沢/無駄から、人生の究極の贅沢/無駄まで、さまざまなシーンから考えてみませんか。

  • 贅沢も無駄も必要じゃない。無駄はあってもなくても一緒。無駄はネガティブなイメージ。
  • 一人で美術館に行くのは贅沢だけど、誰かの役に立つわけではない。でも明日からがんばろうと感じる。
  • (LINEの)返信を待っていてスマホを何度も見るとかは、時間の無駄。
  • 自分の身の丈にあってないワンダフルは贅沢。無駄だと感じるのは今の自分に役に立ってない感じ。上から見たり下から見たり、自分の目線が変わる。自分が弱ってる時は、「それは無駄」と言い切る自信がない。その時のパワーで変わる。
  • 表裏が簡単に反転する。哲学カフェも無駄といえば無駄だけど贅沢とも感じる。禁欲を突き詰めたら贅沢…。お金をかけて簡単に手に入る贅沢は、簡単に反転して無駄にもなるのでは。
  • すごく喉が渇いた時に飲む水は贅沢だと感じる。人それぞれでも違う。自分が贅沢だと感じたことも、人によっては違う。暇と退屈が贅沢と無駄の真ん中にある?
  • 人が持っているブランドバッグについて。自分では買ったことがないけど、人の贅沢を無駄だと思ってた。負け惜しみではなく、見栄とか体裁にお金をかけるのは無駄と感じていた。今ではブランドバッグも値上がりしているので無駄ではなかったのかも…。むしろ彼女たちは頭が良かった?
  • アート制作のための材料や本が欲しくて買って貧乏になったけど、それは贅沢とは思わず自分への投資だと思い、後悔もなかった。でも貧乏な時に弟に旅行に誘われ、旅行代を払ってもらった時、とても潤った感じがした。旅先で見たことについて感動を伝えたら、弟も喜んでくれた。ありがたかった。
  • 身の丈にあってるけど経済状況には合ってない贅沢もある。
  • 金額が高いと贅沢?とも感じるが、娘が必要とするiPad代20万円は出せるけど、自分のためには出せない。個人の中で基準がある。自分の親が質素だったので、贅沢してると悪いことが起こる気がしてしまう。外食もたまにでないと罪悪感。
    無駄にも悪いイメージがあるが、アフリカで暮らした人の体験談を読んだ時、アフリカでは子どものような無駄な遊びを大人も一緒に楽しんでいた。だから全部無駄としてしまうのもどうかな…と。
  • 自分を楽しくさせることは贅沢でも無駄ではないというモノサシがある。ある金額を超えると自分は楽しめないとなると、贅沢ではなく無駄となる。自分を楽しませてくれるかどうかが基準。親の代からきたモノサシを脱却することにもなるかも。必要なものは全て、贅沢とはいえない。必需品。
  • 贅沢と無駄は同じ意味で使われる? 贅沢と言う語をいい意味で使う時と、否定的な意味で使う時がある。満たされた気持ちの時、必要ではないことをしている時が多い。また、同じ境遇で育った姉妹が違う金銭感覚で物を買っていると贅沢だなと感じる。
  • お金のことより時間のことで贅沢と感じることもある。子どもに手がかかるのに、自分のためだけに時間とエネルギーをかけることは贅沢。
  • 義務から解放されてる時間が贅沢。贅沢に必要なのは背徳感。贅沢と背徳感はセット。
  • いま仕事はしていないので、自己肯定感が低くなっている。いま劣等感を感じているので、かつてはプロ用の道具に固執していたと気づいた。新しく買うために調べたら安くて良いものが見つかった。昔のプライドはなんだったのか……。あれは嫌な贅沢だった。
  • 機能が多すぎるスマホは身の丈に合ってないと感じる。かつて、身の丈に合わないものを使って失敗した経験からそれがわかる。昔体験した無駄も、いまの判断に役に立つ。とはいえ、新しいものに心を閉ざすのももったいない。一歩踏み出すことも大事。より人生を楽しめるのでは。
  • 解放されるとか楽しいとか、よかったと感じる心の報酬がある時は、喜ばしい贅沢。無駄と感じる時は心の報酬がない。その人にとっての心の報酬があればいい選択と言えるのでは。ただ、心の報酬は人によってさまざま。
  • いい無駄ってないのか?
  • 投資になるかどうかは、どこで判断するのか。過去を振り返るのか現在か未来を見るのか。時間にかかわる問題。
  • 無駄にも背徳感がある。ダメ男に尽くすのはとても無駄…。でも甘美な背徳感がある。
  • 無駄をいっぱいしてきた。でも投資してきたと思えるのは、すべてがひとつになって流れができている、と感じられる時。人にも喜んでもらえると、そのためにしているのか…と感じるとしあわせ。
  • 背徳感は恐れと喜びがミックスしたものと聞いたことがある。友人はダメ男に尽くして喜びも感じていたらしい。幸か不幸かは本人にしかわからない。
  • ダメ男にもレベルがあるけど、背徳感には心の報酬がある人にはある。人にはわからないけど、ここには価値があるから応援しようと感じる作品などもある。背徳感というのは、これだけで考えるべきテーマでもありそう。
  • 夜中に食べる唐揚げ程度の背徳感から芸術的なものまで、背徳感にもレベルがある。美意識・哲学に通じるものもある。いけない、という縛りがあるから生まれてくるもの。
  • 自分の中の背徳を育てようという心持が贅沢。余裕。
  • 日本の国民性として、理性的な人が多いと感じる。そのなかで、ちっちゃなことでハメを外すことを贅沢とも背徳感ともいえるかも。プチなことでも贅沢と思える幸せな国民…。
  • 破戒僧と言われた一休さん、本人も周囲もそれをよしとしている。でも、それを真似したほかの僧は認められなかった。自分なりの美を作るのが大事。
  • 背徳感と罪悪感は共通点もあるが違うところもある?背徳感と贅沢、罪悪感と無駄、が相性がいいように感じるのは私だけ?
  • 余裕と贅沢の関係って面白そうだなと思いました。
  • 自分の仕事や家族のことでお手上げ状態だったのに海外に行った。その状況から逃げたかったのかもしれないが、なぜ「今」?と自分でも思っていた。でも結果的には人生観が変わるほどの経験ができて行ってよかった。足るを知れてありがたい。
  • 無駄と感じたことも、あとで意味を見出すことがある。見出せると無駄ではなくなる。あとで書き替えられる。人生に無駄はない、というのはそういうことなのだな、と。
  • いかなる時でも贅沢は降ってくるのではないか。受け身であっても、作らなくても。また、緊張のあとにあたりまえの日常が戻ってきたときにも贅沢を感じた。そうやって降ってくるものがある。
  • 家族の介護をしていた時、とてもしんどい時があった。逃げるために一日ホテルに泊まった。奉仕して疲れ果てたから人からサービスしてほしくなった。はじめてエステにも行ったが慣れていなくてリラックスできなかった…。くつろげない自分の思いもエステシャンに伝わらず、その時間は無駄でしかなかった。寄り添って優しくしてもらうのも贅沢の基準。
  • 人に何かサービスしてもらうのは贅沢な時間。昔、一度だけエステに行ったが、エステシャンがケガをしていて、それが気になり楽しめなかった…。
    もてなしを受けるのが苦手な人にとっては、人に何かしてもらうことは贅沢にならない…。
  • 贅沢と無駄の境目はどこに?
  • 子供がいる夏休みはしんどい…。食事作りや子どものサポートで手一杯。それなのに夫が手伝ってくれなくて、キレてマリオットホテルに泊まってやったというママ友がいた。これくらいのお金を使うのは自分の権利だと。
  • 女性がたくさんのストレスにさらされた時、ひとりになりたいのでは…。静寂の中に入りたい?そしてまた現実に立ち戻っていく。それが贅沢?ダメ男や姑や子どもの声に反応しなくなる時に癒されている?余裕を自分の中に作るプロセスが贅沢。
  • 同じ環境に育ったのに姉妹で贅沢の感覚が違う件について。今の姉は夫や子どもからのストレスが大きいから、そのストレスから逃れるために贅沢を重ねないと気持ちがもたないのではと思った。自分は今一人暮らしを楽しんでいて、朝起きて今日何も予定がないという贅沢を味わっている。人によっては一人時間が長すぎるとストレスになるかもしれないけど。贅沢と無駄の境目について、万人に適用できる基準は無いのでは?
  • 別の価値観を知って日常を見直すことができる時、それは「贅沢」ではなく「豊か」と呼ぶのでは。
  • 無駄なことをできる贅沢があるのでは? そういう贅沢を毎日味わえるのは有り難い。そのような贅沢には慣れて飽きることがない。何も無さ過ぎると飽きようがない。何も持っていない方が贅沢感が継続するのでは?

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