4月27日(土)に行われた「おなごテツ」のテーマは『「聞かせたい」と「話したい」』でした。
以下は当日の発言録です。
- 誰かに話すことによって引き出しが開かれる。相手がいることで可能になる。
- 普段聞く側にいると話す機会が少ないから機会がある時には話したい。
- 「聞かせたい」がある人には、自分の主義主張や世界観を宣伝したいという欲求があるのでは。
- 聞かせたいよりは聞いて欲しい、なのかな。
- 「聞かせたい」と「聞いて欲しい」には、「圧」の違い、質感の違いがあるように思う。
- 聞かせたい、は自己表現。聞いて欲しい、は懇願する感じ。受け止めてほしい、みたいな。
- 母にドラマの話を延々と聞かされることがあり、辛い…。私が聞かなくなったら、他に聞いてくれる相手を探して話しているらしい。母は「聞かせたい」と思っていたようだが、よく考えてみると「聞いてほしい」だったかもしれないという。それを聞いて、それは本心だからかわいい、と思った。
- 聞かせたいは強制、聞いてほしいは依頼?
- 聞かせたい、は嘘くさい。ホントは聞いてほしい、なのに。
- 人の話を聞くことは、時間とエネルギーを捧げている。あなたを軽んじないという意味。関心をもって共存してほしい、と話し手は思っている。親の話を聞くことは親孝行だと思っていた。
- 相手の話を聞かずに話す人は、排泄行為なのでは。認めてほしいとか、寂しいとか。でも聞いている方は苦しいので次第に聞いてくれなくなる。排泄行為に付き合えるのは、愛と献身があるから。
- 話すことが排泄行為なら、それができなくなると溜まるのか…。
- 聞かせたい同士になると弱肉強食になる。時間の取り合い?尊重しあえば分かち合えるのでは。
- 自分が聞く側だった時、祖母のことを思い出した。祖母はよくテレビをみながらつぶやいていた。しかしその内容をよく聞くと、周囲にいる人に「聞かせようと」しているようだった。人を変えたい、という欲求も潜んでいるよう。祖母のような人、意外に多い。
- 話したい=自分がモヤッとしていることをスッキリさせたい、つまり排泄行為かも。相手を見ながら選んではいるけど。同時に相手からも引き出したい気持ちがある。
- フィフティフィフティがいい。聞く分と話す分が同量であってほしい。
- 親子や夫婦ならタイミングはつかみやすいが、仕事では難しい。もっと話を聞き出したい時は、交渉条件を提示し、自己開示をしながら話を聞いて調整する。
- 「聞いてくれる?」と最初に言われると、聞き役にならざるを得ない。仕事だと、後輩に対して選択肢のある質問を投げかけたりもする。ただ人によっては、質問を詰問と感じることがあるみたい。
- お年寄りは寿命が短い。だから排泄物を出してくる…。一生懸命、脳の整理をしているのでは。年齢によって話したい衝動の強さは違うだろう。
- 聞くと話すの分量のバランスは大事だと思う。性差の違いもあるかも。
- ある哲学カフェで、ひとりの男性の話が終わらなくて困惑した。パートナーは、話す:聴くの割合を3:7で聞く側に回ったほうがいいと言っていた。「聴く」が9になると、さすがに辛い。
- 得意分野は気を付けないと自制心を忘れることがある。知識を見せつけたい人も多い。
- 哲学カフェは自分の意見の発表会だと思っている人もいる。つっこまれるのが怖い人もいる。
- 発言の質の競い合いのようになると辛い。女性は嫌われないよう、相手に好かれるように話すのが上手い気がする。相手の意見も促してみたり、少しへりくだってみたり。そういうテクニックも必要な添加物では。
- 鎧を着ていくか、下手に出るか。男性が多い場に行くとき、どちらかを選ぶ。
- マウントをとる人は、知識武装しているだけで考えていないのでは。言いたいことばかりに集中して、人の話を聞かない。
- 男性は感情面を切り捨てて客観的に話そうとする人が多いような気がする。
- 高齢者の方になればなるほど、男女差が開く。男性は役に立ちたい欲が大きいのかもしれない。人が聞いていなくても一方的に話す人も。「言いっ放し」の人もいる。リアクションは求めず、言いたいだけ。それを無責任に感じることも。
- 自分の意見がないものとして扱われそうな時、違う意見をもっていると「言わなきゃ」と思う。マイノリティの立場だと時には言いづらくなるけれど、言わないとその意見がないものにされてしまう。
- ママ友同士は、どのママも自分の子育てがいいと思っていてマウントの取り合いになりがち。子育てでうまくいかないところを話せば、相手の気分を害さずに自分の意見が伝えられる。
- 使命感からの「伝えたい」は皆無だけど、「話したい」はある。発見や気づきがあると、相手が聞きたいかどうかはともかく話したくなる。
- 「わかるわかる」を伝えたい衝動はある。口火をきるより、人の意見に乗っかりたい。
- 「話したい」は、安心感のある所で感じる。まとまらなくても何か言うことで化学反応が起こるかもしれないから。話したい、聞かせたいは、根っこは同じ。でも、相手の受け取り方は違う。
- 誤解がないように細かく丁寧に話そうとする人がいるが、話が長すぎるとわからなくなる。
- コミュニケーションの相性がある。お互いがフィフティフィフティだと信頼しあえる。一緒にある舞台を見たあと、それについて話し合うのを嫌がられたことがある。感性を試されるのがいやだったのか?
- 母のグチを子どもの頃から聞いているが、ずっと変わらない。解決しようとしない。愚痴は排泄物だけど、前向きに解決したい気持ちがある愚痴は排泄物とは思わない。
- 思い出を語り合うことで、仲間意識を確認することもある。
- 美術館、映画、一人で見に行くこともあるし、友達と行くこともある。ただ、一緒に行く相手は自分一人でもチケットが手配できる人がいい。そういう人となら楽しめる。
- 美術館は家族で行く。一人で行ってもそんなに話すこともない。夫と映画に行くと、感想よりも子育ての話になる…。
- グチを家族に話していたら、「いつも同じ話をしている」と指摘される。シーンは違っていても、根本にある悩みはいつも同じ。それはあなたのテーマなんじゃないかと言われた。
- 美術館などは絶対に一人で行く。余韻があるとハシゴしたくなるから。人と行くと、相手に合わせなくてはならない。ひとりで行っても、周囲の他人の感想が聞こえてくると楽しくなる。
- おなごテツにはお互いへの配慮がある。男女混合の哲学カフェだと、女性であることで「聞き手」としてのサポート役が求められることが多く、話しにくい。
- 美術館や映画館はひとりで行くのが好き。自分との対話みたいな感じでそういう時間を使っている。
- ほかの人の話を聞いて、「そうそう」と言いたい。浅い共感かもしれないけど、それを快感と感じる回路が脳にはあるんだと思う。「わかるわかる」程度の軽い共感もない世界は、生き辛いのでは。
- 若い頃から「ぼっち」だから、誰かとシェアしたい憧れがある。自分なりの発見や気づきを「言いたい」。でも人の考察も知りたい。気づきがもっと大きくなり、増えていくから。
- 美術館に誰かと行きたいと思っても、その相手を探すのは難しい。だからこそ、私のほうから「こういうものが好き」と話をしていく。そうしなければ、マッチする相手に出会えない。
- 好きなことを好きなだけ話す。そこからつながりが生まれ、人生が豊かになる。
- 話すことがなくても、話したい気持ちはある。誰かとつながりたい、話したいと思っている。