おなごテツ

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8月27日(土): 世のため、人のためって何のため?

8月27日に行われた「おなごテツ」のテーマは、「世のため、人のためって何のため?」でした。

以下は当日の発言録です。

 

  • 声高に言う人はうさんくさいけど、本当にそう考えて行動している人のことは純粋にリスペクトする。自分は家族や目の前の人までにしか思いが及ばないけど。特に女性でそう考える人は素晴らしいと思う。
  • 家族のことはうっちゃって、世のため人のために行動する人もいる。
  • 釈迦やガンジーも家族をうっちゃって出て行きましたね(笑)
  • ディスタンクシオン」という、社会学ピエール・ブルデューの本が面白かった。芸術とか理解するのには文化的下地がある。「目は歴史の産物」という言葉も印象的。他人は基本的に理解できないが、周りの人が落ち込んでいたりするとなんとかしてあげたいと感じる。「人のため」は自分のため。環境問題もそう。結局めぐりめぐって自分のため。自分ができる最善を人に対しておこなう。自分を理解することは他人を理解することにもつながり、他人のためになることができるのでは。自己理解が一番大切。
  • 「世のため、人のため」は自分のため。でもそう言う人をうさんくさくも感じる。それは見返りを求めているから。見返りがなくイライラするくらいなら、純粋に自分自身の喜びのためである方が健康的。
  • 「自分のため」もなしにしたらどうなるんだろう?
  • 目の前で子どもが転んで泣いている。その時サッと手を伸ばす時って衝動的だけれど、結果的に「世のため、人のため」になることの方が多いのではないか。
  • 弱い者を助けたいという本能もあるのでは。個人差もあるけれど。逆に、助けなきゃ…と思うけどできずにいるままに他の人が助けている時がある。その時、罪悪感、無力感を感じることがある。
  • 衝動的に動ける人(いい人)が世の中にはたくさんいるから、世の中は回ってる。罪悪感を感じるのも「いい人」だから。
  • 高齢者に席を譲ろうとする時、相手は不快に思うこともあるかもしれない。弱者を助けたいという気持ちも出てくるけど、それを押しとどめる経験もある。むずかしいな、と。価値観の多様性で行動がむずかしくなっている。
  • ものすごくきらいな人が目の前で危険な目にあいそうになったら、やはり「危ない!」と声はかけるだろう。それは本能的に。神ではなく個人が「〇〇のために」と思うところに意味がある。バイアスやコントロールが働く余地。「利他」とは微妙に違う。
  • 女性の方が、男性よりも世の為人の為に活躍しろと言われるのではと感じる。家族のために尽くすのは「女性」。女性が「自分のために」なにかしたいと言っても許されにくいのではないか。
  • 男性は「社会のために」と言われて苦しんだ人もいるかもしれない。
  • 母が祖母の介護をしていた時、母の祖母に対する行動に、虐待では…と感じるものがあった。しかしそれは母が自分のキャパをオーバーしていたが故ではないかと思った。そういう時は人に助けを求めることも、「人のため」になるのではないか。
  • 女性が世間からのプレッシャーから、キャパオーバーの介護などすることもある。「〇〇のため」に縛られている人は視野が狭くなっている。自分が無理していることに気づいていない人がいる。
  • 自己評価のために「世のため、人のため」を使ってはいけない。そもそも「世のため、人のため」は、結果的にそうなったね、という程度の言葉。
  • 昔、介護をしていた時、最後に逃げた。「しなければいけない」という呪いにかかっていると自分のキャパがわからない。苦しさや怒りも抑圧されて見えなくなる。でもどこかで出てくるから怖い。強制される時は善意ではできない。だからそういう時は打算的にするしかない。
  • 「やさしさ」ってなんだろうと思った時、自分がしあわせになってお福分けするくらいがちょうどいいのでは、と思う。相手が欲しがってる分だけあげられればベストだけれど。
  • 自分がやりたくないという思いが生じた時から「世のため、人のため」って出てくるのでは。自分が本当にしたいことなら「世のため、人のため」とは思わないだろう。ボランティアも、好きでやることなら思わない。戦争に行くような時、いやだけどやらなきゃいけない場合には「世のため、人のため」ということになるのでは。
  • やりたくない事の言い訳や理由づけが「世のため、人のため」?
  • やりたいけどやらせてもらえないときに「世のため、人のためにやるのよ」という理由をこじつけることはある?
  • 大義名分ということかな。
  • やりたいことなら、キャパも超えていける。子育てはやれる。介護は……
  • 席を譲られる時など、声をかけられる時にお年寄りががっかりすることがある。「世のため、人のため」以外に「周りのため」もあると思う。大昔の介護の時、大変だったが「自己実現のため」それもいいか、と思ってできた。
  • 「世のため、人のため」はスローガン。最近のスピ系の教祖は「みんなに気づいてほしい」と話す。昔とは違う形で「世のため、人のため」と言っている。この意識ってなんだろう?と思う。
  • 政治家は(本当はどうかわからないけど)みんな「世のため、人のため」ですよね
  • 不特定な人に対するキャッチフレーズ。タイガーマスクの名前でランドセルを施設に寄付していた人がいた。それは不特定多数の知らない人のためにしていたが、理由を聞くとご本人も施設で育ったからだった。共感力をもって、自分に空いた穴を埋める作業だったのでは。
  • 【問いかけ】「世のため、人のため」というモチベーションは価値がありますか?
  • そういう視点をもったことがない。家族のため、お金のため、ならある。でも仕事において、クライエントのためというように思えたら、仕事の質が向上するかもしれない。目に見えない財産となるかも。本当にそうしている人は、口には出さない。
  • モチベーションは上がる。これから先の人のためというイメージがある。自分の時間は100%自分のために使っているが、実家は四世代同居で母や祖母は大変そうだった。その母や祖母の代わりに、今自分が楽しんでいるような気もしている。未来の人のためだけでもないな、と。
  • 未来の人のためのことも考えなきゃ、と考えると、やっぱり「世のため、人のため」と考えることは価値がある。自分の欲のために生きる資本主義社会も限界にきている。だからこれからは「世のため、人のため」がキーワードになるのでは。社会からのプレッシャーもあるけど、女性の方がやはり優しいと思うし、これからは女性的なコミュニケーションが大切になってくるのでは。今までは男性的な世の中だったけど。
  • 純粋に「世のため、人のため」では長期的には動けない。例えば、女性の立場をよくしようとかいう動きは、自分が女性という属性があるからやる気になる。人は属性を意識した時、がんばれる。短期的には動けることもあるかもしれないが。
  • アニメ映画「天気の子」、世界を救う系の話。自分の犠牲と引き換えにできるとしたら、自分ならどうするかな、と思った。
  • 宇宙戦艦ヤマト」の特攻はどうなのか…
  • 漫画「パタリロ」に世界を癒す男の子がいて、人を癒すことで死んでしまう。その行為は、その男の子の才能だから、癒すことが自己実現になる。
  • 女性が働きやすいように職場の環境を整えているが、残業や出張ができない社員の代わりに自分が動いている。でも、私にばかりに押し付けられている…とも感じる。これからの女性のためにと考えていたけど、それに押しつぶされそうにもなっている。
  • みんな価値観が絡んでくる。赤ちゃんと大人の女性の時間、どちらを大事にするの? 天秤にかけられるものなの? 昔読んだ漫画の話で、さらっと自分を犠牲にするキャラクターがいた。そのぐらい軽いものであっていてほしい。私は「世の為人の為」はモチベーションにならない。選ぶ基準は自分のワクワク感。気負いたくない。
  • 自分が生きやすいように生きたい。社会の流れもそうなってきている。自分のやりたいことばかりしても幸せなのか?と思うところもある。すごくしたいことでもなくても、人の利益になることをした時に別の喜びもある。ただ、ふとした時に自分を度外視してモチベーションが上がる時もあるかも。
  • 人のために喜んで死んでいきそうな知人がいた。自己犠牲で死にそうになったが、その直前に自分が抑えていたものに気づき「人間」として復活してびっくりした。
  • 自分がガンの末期なのに、病室でカウンセラーをしていた人がいた。好きな人ではなかったが、その人は自分を全うして亡くなったと感じる。ワイルドの「幸福の王子」でかわいそうなのはツバメ。同じように、自己犠牲で人を救うカリスマはいいけど、周囲で巻き込まれる人もいるのでは。
  • ツバメさんも「世のため、人のため」って思ってたのでは…。充実してたかも。人間は犠牲になっても死なないのがむしろせつない。二度と「『世のため、人のため』に働くか!」と思うのでは。夫や姑のためにがんばってきた人が、外で夫や姑が自分の悪口を言っていたと聞かされて、もうがんばれなくなる人がいる。
  • ツバメも心を打たれてる面もあったのでは…。王子様の使いをすることで幸せでもあったのでは。天命というか。
  • 〇〇教会に寄付するような人も、本人は「世のため、人のため」良かれと思ってやっているかも。でも周囲が理解できないと辛い。
  • 知人で性教育フェミニズムに興味のある男性がいたが、セクハラまがいのことをされた。その人に問い直してみたいが、それは自分の怒りのために言おうとしていると感じ、ではどう振舞えばいいのかと思った。ツバメの幸せはツバメにしかわからない。でもどうしてツバメは幸せだろうかと考えてしまうのか。
  • 「世のため、人のため」が、言い訳になっちゃってるのでは?というモヤモヤ
  • 個人的な怒りや正義感を「世のため、人のため」に結びつけるのは問題があるように思うが…
  • ふらふらしていたおじいさんがいて、大丈夫かな?と見ていたら倒れたので救急車を呼んだ。人がたくさん集まってきたが、その人たちは、ただ「助けなきゃ」という思い(正義感)だけだったのでは。
  • 自分がしてもらえなかったことのために他者に対してなにかすることがあると言われたが、それは個人の「怒り」が純粋なモチベーションに向かった例では。
  • 井戸に落ちた子どもを救うのは「慈悲」、「仏性」。
  • 芸能人の離婚で考えたこと。みんないろいろなことを言う。それを観ていて、人の立場を理解しないとだめなのかな、と思う。人を責める時は気を付けないと。言わないことを選ぶ、できないことを選ぶということも、世の為人の為かもしれない。
  • 個人の思惑で「世のため、人のため」とやるんじゃなくて、本来は、本能や慈悲のような、持って生まれたものかもしれない。それをわざわざ言うことこそ、誰かの思惑ではないか。人間の善を信じないような人が。